半兵衛にございます。
さて
天文二十年前後のこと、
上杉謙信公が、遠からず川中島に出陣するであろう、と予測した男がいました。武田家の謀将・
真田幸隆殿です。幸隆殿はその具体的な日程を知るため、自ら商人に変装して川中島へ赴きました。謙信公の川中島出陣は、信濃に残る
反武田勢力(村上氏・木曽氏・伊奈氏)との連合で行われるのが常でありましたから、双方の使者が川中島を往来しているに違いない、と見当をつけていたのです。
すると怪しい僧が一人。幸隆殿はこの僧に病と偽って、
『深志の里まで同道してはくれまいか』と頼みました。僧も相手が病人とあっては嫌とも言えず、深志まで同道することとなりました。この僧をやはり怪しいとみた幸隆殿は、途中、会田の宿で僧の衣服を調べ、謙信公から信濃の国人たちへあてた書状を盗み見ることに成功したのです。
それによれば、謙信公の川中島出陣は
『二十一日』と記されていたそうです。これでは武田方の迎撃態勢が整わないかもしれない。今、謙信公に川中島に出てこられては、苦労して攻略した信濃の地域を、根こそぎ上杉方に攻め取られないとも限らない。幸隆殿は考えあぐねた末に、書状の日付を
『二十三日』と改ざんすると、もとの場所に書状を納めて、深志で僧と別れ、すぐさま使者を甲府に仕立てました。
信玄公が準備もそこそこに甲府を進発したのが十八日、塩尻峠到着が十九日。謙信公の到着を二十三日と心得て準備していた信濃の反武田勢力は、突然現れた甲州軍団に周章狼狽し敗走。そのため二十一日を期した謙信公も、共同作戦がとれずに出陣を断念したといわれております。
少し作り話的な感もありますが、小手先のその場しのぎであっても、ときとしては大軍を惑わし、攪乱することもできる、という点は学べるところではないでしょうか?でわ!
真田 幸隆 (統率81、政治82、知略97、教養72)
弾正忠。
真田昌幸の父で、
真田信繁(幸村)の祖父にあたる。武田軍の
戸石崩れ後、容易に落ちないとみた幸隆は、村上勢を内部からの切り崩しにより落城させた。第四次川中島の戦いでは、夜襲部隊にいたといわれる。
川中島合戦ののち武田は西上野侵攻を開始するが、天文23年の
甲相駿三国同盟成立後には、上野へ侵攻する
上杉に対して
北条氏康から幸隆に出兵要請がされており、幸隆は関東方面の戦略に関わっていたと考えられている。武田氏に提訴されていた
吾妻郡内での
鎌原氏と
羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあり、幸隆が調停に関わっている。永禄6年には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城
岩櫃城を、永禄8年には
獄山城を、永禄10年には
白井城を攻略している。
その神算鬼謀の才は上杉謙信に、『
真田の知謀には七日の遅れあり。信濃を容易におとすことは出来ない』といわしめた。また信玄からも評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。武田家中でも一目置かれていたと言われ『
攻め弾正』の異名で呼ばれた。