半兵衛の草庵

竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語るブログ!

下克上と室町幕府の権威を借る時代・・・ 

応仁の乱により京の町は荒廃の極みに達しましたが、これによるメリットもございました。それは京の公家達が各地方に分散したことです。これにより京文化が全国に広がったのです。

さて、一応の終息に向かった応仁の乱ですが、明応二年(1493年)四月十代将軍・義材公が、管領・細川政元さまのクデーターによって将軍職を追われてしまったのです!!

これを期に将軍は細川、三好、松永らの私利私欲のために担がれるロボットと化し、京の支配権を奪われてしまいました。

では、なぜ無力の足利将軍家が信長さまの義昭公追放に至るまで、存在しえたのか?それは皮肉なことに、三代将軍・義満公の時代からある儀礼的秩序です。この儀礼的秩序は、戦国期の無力な将軍をささえ、成り上がりの戦国大名でさえ、将軍の名の一字や、名ばかりの幕府の官職名をほしがったのです。こうした儀礼的秩序が存在している間、将軍家も存在しえたのです・・・

こうして世は将軍をも斬る時代となり、戦国乱世の世が生まれました。そうした中、北条早雲さま、毛利元就さま、斎藤道三さま、武田信玄さま、上杉謙信さまなど、戦国の荒波にもまれた梟雄、英雄が誕生していったのです・・・。


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[ 2006/03/25 21:28 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(0)

応仁の乱の開帳と閉幕・・・ 

半兵衛に候・・・

日本史上類を見ない後継者争いである応仁の乱ですが、序盤の戦いは管領家・畠山家の争いから始まりました・・・

西軍・山名宗全さま管領家・畠山義就さまを抱き込み、義就さまは宗全さまの呼びかけにより、1466年12月、兵五千人を率いて入京。将軍・義政公に謁見したのです。

1467年正月17日、義就さまと対立する畠山政長さまは自らの館を焼き払い、上御霊神社の森(御霊林)に陣を張り、翌日18日、両者は激突するのでした・・・

一方の細川家と山名家も同年3月、対立が激しくなり5月26日、激突。東岩倉の合戦,相国寺合戦などが起こりましたが、一進一退の攻防でした。しかし大きな戦闘はこの年のみで、あとは小競り合いにすぎませんでした。

教科書のように文面化しても、合戦の凄まじさがわからないと思いますが、上記の合戦において相国寺・南禅寺・青蓮院などをはじめ、各所の大寺院に火がかけられ、言うまでもなく公家屋敷、民の住居も紅蓮の炎に包まれ、その下を騎馬武者が駆け巡り、ときの声があがり、無数の矢が飛び交う・・・。逃げ惑う民の中には、馬にひかれる者、流れ矢にあたり命を失う者もいたそうです。

孟子の『春秋に義戦なし』の言葉通り、戦において義戦などないのです・・・。その後、応仁の乱は細川勝元さまが義視さまを擁立し、山名宗全さまは義尚さまを擁立していましたが、いつのまにやら擁立が逆転し、結局は義尚さまが第九代足利将軍家を継ぐことになったのです。さらに勝元さま、宗全さまが死去すると、いよいよ戦闘は無気力なものとなったのです。

こうして政府の権威も弱体化し、全国の国人が力をつけ、下克上の時代へと突入するのです!


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[ 2006/03/24 22:44 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(0)

日本史上類を見ない後継者争い・・・ 其之一 

半兵衛にございます。

昨日、室町幕府の権威について少々お話ししましたが、ただでさえ弱い権力基盤に追い討ちをかけたのが応仁の乱です。これをきっかけに京の町は荒廃し、無政府状態になってしまったのです。
         
        

その応仁の乱ですが、簡潔に話せば後継者争いです。将軍家の後継者争いのみならず、管領家の後継者争いまで起こってしまい、京を中心に全国に大乱が飛び火したのです・・・

内容は以下のとおり・・・

室町幕府第8代将軍・足利義政公には実子がおらず、弟である義視(よしみ)公を後継者に指名しました。義政公も『今後実子が生まれても仏門に入れる』と約し、義視さまも承諾致しました。

ところが、しばらくして義政公の妻・日野富子さまに義尚公が誕生致しました。すると富子さまが実子・義尚公を後継者にしようとしたため、義視派と義尚派の対立が起きたのです。

義視派には管領家細川勝元さま(東軍)が、義尚派には四職家山名宗全さん(西軍)がそれぞれつきました。

さらに管領家斯波家畠山家の後継者争いも加わり、各地の有力守護大名たちもそれぞれの利害関係から陣営についたのです。

これが応仁の乱のはじまりだとされています。

       
[ 2006/03/23 18:52 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(19)

室町幕府の権威 

半兵衛にございます。

戦国時代は、室町幕府の衰退とともにはじまった…といわれれば、室町幕府の権威というのは、すごいものだったと思われますが…

その実、室町幕府最盛期においても、鎌倉幕府、信長さま・秀吉さま政権、江戸幕府に比べれば、軍事力・経済力その他あらゆる点で劣っており、つまり日本歴史上の武家政権のなかで、もっとも最弱で権力基盤の不安定な政権だったのです。

では、なぜ権威があったのか・・・?

これは御家人同士の身分的差別がすくなかった鎌倉幕府に比べ、室町幕府は上下の秩序や格式が重んじられたためだと思われます。斯波家・細川家・畠山家三管領家山名家・一色家・赤松家・京極家四職家といいますが、このように家格・家柄・身分・地位を定めたことにより、将軍という権威が生まれたのです。これはおそらく室町幕府が政権の根拠地を京に置いたため、公家社会の儀礼の影響を受けたと思われます・・・。

こうして2世紀あまりも続いた室町幕府ですが、信長さまによる15代将軍・義昭公の追放をもって、室町幕府は幕を閉じました・・・

が!神武天皇の代から明治元年までの従三位以上の人物を列挙した『公卿補任』によれば、義昭公が出家した1588年まで、彼を『従三位 権大納言 征夷大将軍』と記してあるのです。室町幕府の滅亡は1573年とされていますので、15年も征夷大将軍でありつづけたのです。

       
[ 2006/03/23 09:13 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(0)
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Author:竹中半兵衛
竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語りたいと思っております。時折、結城筑前守が登場致します。

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