半兵衛に候・・・
日本史上類を見ない後継者争いである
応仁の乱ですが、序盤の戦いは
管領家・畠山家の争いから始まりました・・・
西軍・山名宗全さまは
管領家・畠山義就さまを抱き込み、義就さまは宗全さまの呼びかけにより、1466年12月、兵五千人を率いて入京。
将軍・義政公に謁見したのです。
1467年正月17日、義就さまと対立する
畠山政長さまは自らの館を焼き払い、上御霊神社の森(御霊林)に陣を張り、翌日18日、両者は激突するのでした・・・
一方の細川家と山名家も同年3月、対立が激しくなり5月26日、激突。
東岩倉の合戦,相国寺合戦などが起こりましたが、一進一退の攻防でした。しかし大きな戦闘はこの年のみで、あとは小競り合いにすぎませんでした。
教科書のように文面化しても、合戦の凄まじさがわからないと思いますが、上記の合戦において
相国寺・南禅寺・青蓮院などをはじめ、各所の大寺院に火がかけられ、言うまでもなく公家屋敷、民の住居も紅蓮の炎に包まれ、その下を騎馬武者が駆け巡り、ときの声があがり、無数の矢が飛び交う・・・。逃げ惑う民の中には、馬にひかれる者、流れ矢にあたり命を失う者もいたそうです。
孟子の『春秋に義戦なし』の言葉通り、戦において義戦などないのです・・・。その後、応仁の乱は細川勝元さまが義視さまを擁立し、山名宗全さまは義尚さまを擁立していましたが、いつのまにやら擁立が逆転し、結局は義尚さまが第九代足利将軍家を継ぐことになったのです。さらに勝元さま、宗全さまが死去すると、いよいよ戦闘は無気力なものとなったのです。
こうして政府の権威も弱体化し、全国の国人が力をつけ、下克上の時代へと突入するのです!