半兵衛の草庵

竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語るブログ!

危急存亡の秋(とき)!高坂昌信の献策とは? 

半兵衛にございます。さて高坂昌信殿を御存知でしょうか?御存知でしょう。武田家好きなら誰でも知ってる、高坂昌信殿です。武田二四神将にかぞえられ、武田四名臣にも連なる戦国屈指の名将です。

タイトルの『危急存亡の秋』とは、武田家の危急存亡の秋のことです。それは長篠の合戦にて潰滅的な打撃を受けた武田家。山県三郎兵衛昌景殿、馬場美濃守信春殿、内藤修理亮昌豊殿ら多くの重臣が討死し、もはや目も当てられない状況に陥り、武田家は滅亡の危機にまで追い込まれてしまいました。そこで昌信殿は、武田家存続、再建の手段に主君・勝頼殿に三つの策を進言しました。

一、駿河・遠江の二国を同盟国の北条氏に譲り、武田家は甲信二国をもっぱら保つこと

二、上杉謙信に幕下の礼をとり、その庇護のもと信長の甲斐国侵攻を防ぐこと

三、身分の高い者の師弟の昇進を止め、代わって身分が低くとも実力のある者を登用し、甲州軍団を再編成すること

高坂昌信殿は亡き信玄公のためにも、武田家を残そうと必死の思いであったでしょう・・・。貴方なら、どの献策を採用致しますかな?つづきはREAD MOREをクリック!!


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[ 2006/05/18 23:33 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(2)

酒井忠次に学ぶ!単純な忠誠心は悲劇を生む 其之三 

半兵衛にございます。酒井忠次殿のお話しがまだ完結してませんでしたので、本日完結致す所存。

さて家康様の性格は複雑です。『タヌキ』やら『腹黒い』などといわれますが、そういう意味でも大変複雑な性格の方です。忠次殿にとってもはや、昔一緒に過ごした竹千代ではないのです。見抜けなかったのが忠次殿の不幸だったかもしれません。この忠次殿に対して、天はさらなる不幸を与えました。

それは忠次殿が、天正七年に犯した罪を、家康様が改めて問うたことです。

天正七年の罪とは、桶狭間で今川義元を倒した信長様はその後、勢力を拡張するために、人質から解放された家康様と同盟(清洲同盟)をしました。そのために政略結婚が行われましたが、信長様の娘は一面スパイの性格をもっていたので、家康様の嫡男・信康とその母・築山殿について、いろいろと悪い報告を父(信長様)にしました。『自分の夫・信康とその母・築山殿は、ひそかに武田に通じて、徳川家と織田家を滅ぼそうとしている』と密告しました。なぜこの行動に出たのかには諸説ございますが、省きます!いずれにせよ、信長様はこれを黙殺しませんでした。そして忠次殿に『申し開きをしにこい!』と命じられました。

本来、これはおかしな話しです。忠次殿の主人は家康様であって信長様ではありません。その家康様の部下に対して、信長様が直接名指しで、申し開きにこい、というのは越権です。忠次殿は断るべきでした。ところが、忠次殿は信長様に命じられたとおり、すぐ信長様の城へ行ってしまったのです。

結果は御存知の通り、信長様の忠次殿に対する尋問は厳しく、忠次殿は驚き、動転し、十分な申し開きができませんでした。忠次殿は戦場で先頭を切って走り出すのは得意でしたが、こういう交渉事やあるいはウソをついてその場を切り抜けるということが不得意でした。それを見越して信長様は、忠次殿を名指しで呼び出したのです。こうして家康様の嫡男・信康は切腹させられ、母・築山殿も殺されてしまいました。このことは、徳川家に大きな傷跡を残し、忠次殿は『裏切り者』というようなまなざしを、しきりに投げつけられてしまったのです・・・。

天正十六年、忠次殿は、子供に家督を譲り隠居しましたが、このときすでに目は見えなくなり、やがて慶長元年、一人寂しく死んでいったそうです。

家康様は天正十八年、関東に入国し、功労のあった家臣団に知行をあたえましたが、四天王のうち三人は、すべて十万石以上の知行をもらいましたが、忠次殿の息子だけは、わずか三万石しかあたえられませんでした。このことに不服を訴えた忠次殿に家康様は、『お前も我が子が可愛いか』と信康事件の不手際を難詰されてしまったのでした。

補佐役の『トップに対する研究』がいかに大切かということを、酒井忠次殿から学んで頂けましたでしょうか???


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[ 2006/05/17 21:44 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

酒井忠次に学ぶ!単純な忠誠心は悲劇を生む 其之一 

半兵衛にございます。

酒井忠次殿は、井伊直政殿、榊原康政殿、本多忠勝殿らとともに『徳川四天王』と呼ばれ、筆頭に位置付けられていた武将です。『徳川四天王』と呼ばれるくらいだから、家康様の信任が厚かったのだろうと思われますが、彼はあまりにも単純な忠誠心と誠実心で、徳川家にとって大きな傷跡を残してしまったのです。ただ単なる忠誠心だけで世の中渡れるほど甘くないということを、酒井忠次殿から学んで頂きたいと思っております。

忠次殿に足りなかったものとは、ずばり、『主君(トップ)を研究する』ということです。では、なにを研究するか?それは主君が公人として何を狙っているかということはもちろん、その人間性を微に入り細をうがって知るということです。忠次殿は、主君である家康様に対する人間研究が甘かったように思われます・・・。家康様は複雑な人間です。彼には『水はよく船を浮かべるが、またよくひっくり返す』という発言がございました。水を家臣におきかえれば、家康様の言わんとしていることは、はっきりしております。それほど家臣を信じなかったということでしょうな。幼少から人質になった家康様の心はひがんで、ある意味では強い人間不信感で固まっているといってもおかしくはないでしょう。忠次殿はそういう面での研究が足りなかったのです。

忠次殿は家康様がまだ竹千代と呼ばれていた時代、今川家の人質に囚われたときその供をしております。つまり、家康様と人質生活を一緒に送ったのです。やがて桶狭間の戦いで、その今川義元が信長様に殺されると、家康様は岡崎城に帰りました。この頃から、忠次殿は家康様の補佐役として活躍し始め、家康様の合戦には常に先頭に立ち奮戦してきました。

例えば、三方ヶ原の戦いは家康様が武田信玄公に大きな敗北を喫した合戦ですが、忠次殿だけは武田軍を逆に破っております。また、長篠の戦いでは信長様に進言して、大勝利の基をつくっています。忠次殿にしてみれば、信長様に進言することが、主君である家康様のためになると考えての行動ですが、家康様が忠次殿のそういう真心をそのまま受け止めていたかどうかわかりません。忠次殿は確かに家康様のことを思っています。家康様によかれと信長様に接近し、そのヒゲのチリを払い、いろいろな策を進言しては、家康様の名が上がるように努めてはおります。

―――忠次殿の忠誠心の披瀝はまるで単細胞でがむしゃらです。ただ忠誠心を目いっぱい表せばいい、というような行動ぶりに感じられます・・・。この行動が彼を悲劇に追い込んでいってしまうのです・・・。つづく!!



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[ 2006/04/30 19:24 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(1)

細川藤孝に学ぶ!退き時を知る術 其之三 

半兵衛にございます。

藤孝殿のお話しのつづきです。義昭公から信長様の補佐役になった藤孝殿と光秀殿ですが、信長様は御存知の通り、本能寺の変にて死去してしまいます。そのとき、藤孝殿は息子・忠興に、『妻の玉を離縁して牢におしこめろ』と命じました。玉殿が牢に押し込められると藤孝殿は隠居し、頭をまるめて『幽斎』と名乗りました。これらの行動はスジが通っていることにお気づきでしょうか?すなわち・・・

主人殺しの光秀殿には加担できない、したがって、息子の嫁である光秀殿の娘とは離縁し、牢に押し込める。が、自分は隠居・出家して光秀殿への友情の証とする―――

光秀殿からは、『味方になってくれ』としきりに誘いがきました。しかし、藤孝殿は首を振り続けました。天下を取った秀吉様はこの行為に感謝し、息子の忠興だけでなく、隠居した藤孝殿にも城と国を与えました。そして、やがて関ヶ原の合戦。

秀吉様から復縁を許された玉殿は、石田三成くんの人質になることを拒んで自殺いたしました。藤孝殿父子は田辺城(舞鶴城)におり、三成軍が囲みましたが降伏せず、包囲軍を釘づけにしました。いよいよ落城か、といわれましたが、このとき、時の帝・後陽成天皇が、『細川ほどの歌人を殺すのは惜しい。囲みを解け』という勅語を石田三成くんに出しました。こんな例はございません・・・。三成くんは囲みを解いたのでした。

これが評判になって、藤孝殿は今度は家康様に重用されます。そして大坂の陣によって豊臣家が滅びると、藤孝殿は忠興に隠居させ、三男の忠利に家を継がせました。もちろん、このとき彼は攻撃側におりました。しかし、そういう形で豊臣家への忠誠心はきちんと表明しておきました。のちに忠興は『三斎』と号し、有名な風流大名になりました。と同時に、二代将軍・徳川秀忠様の、『ご意見番』になっております。

そういえば、藤孝殿も補佐役として実際に行動したのは義昭公のときだけで、信長様、秀吉様、家康様に対しては、『御伽衆(主君の話し相手)』のポストに徹しておりました。

―――藤孝殿には、『四人の主人に仕えた世渡り名人』とか、『泳ぎ上手』などの評もございますが、それだけではないように思えますな・・・。出処進退の美しさと徹底した補佐役としての心構えが藤孝殿にあるからこそ、退いた後にも新たな舞台が用意されていた、といえるでしょう・・・。


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[ 2006/04/28 22:25 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

細川藤孝に学ぶ!退き時を知る術 其之二 

半兵衛にございます。

昨日につづき、藤孝(幽斎)殿のお話を・・・。博識・文才に加えて彼には素晴らしい才能がございました。頓知です。例えば、義昭公との放浪中に、義昭公が『書物が読みたい』と言い出しました。しかし、放浪中の身で書物も、灯火用の油もあるわけがないので、書物は旅先の旧家から借り、そして灯火の油は近くの神社で盗んできたのですが、ある夜、油を盗んでいるところを神主に見つかり、神主に怒られると、藤孝殿はこういいました。

神様は夜でも目がお見えになるでしょうから、油はいらないだろうと思いまして・・・

神主は笑い出し、実情を知り感心したそうです。そして、『これからは油を進呈しよう』と盗みの罪を咎めませんでした。

また、京都御所に呼ばれ、『歌をつくってみろ』といわれたので参内しました。しかし、はじめての参内なので御所の段でころんでしまったのです。これを見た公家たちが、『細川殿、そこで一首』とはやしたてました。苦笑いする藤孝殿は、こう詠みました。

とんと突く ころりところぶ 幽斎が いかでこの間に 歌を詠むべき

ころんでいるわたしに、どうして歌が詠めるのか』といいながら、ちゃんと詠んでいるのです。・・・補佐役にこのようなユーモア精神があれば、難しい問題もこじれずにすみますな・・・。かなり話がそれてしまいましたが、本題へ・・・。

義昭公は新しいスタートを切るにあたって、自分のドロドロした過去を知り尽くしている補佐役が、そのまま居座ることに反対するという考えでした。ですから、藤孝殿が身を退いた際に、強く引き止めませんでした。ただ義昭公を弁明すれば、公には古くからの足利家ゆかりの家臣を、大量に登用しなければならなくなったことと、上記に挙げた義昭公の考えにより、引き止めなかったのです。

そんなこんなで、藤孝殿は義昭公のもとを去りました。すると、明智光秀殿も辞職し義昭公のもとを去ったのです。これを凝視していたのが信長様です。『見事な進退だ』と二人を褒め、『客分としてわしのところに来い』と言いました。客分というのは、信長様と義昭公の連絡係になれ、ということです。これはかなり適材適所のうまい使い方です。なんせ、二人は義昭公の裏も表も知り尽くしているからです。そもそも義昭公を傀儡にしようと考えていた信長様は、二人の蓄積している情報を重視しておりました。そして巧みにそれを義昭公の傀儡化に利用したのです。

これは義昭公が悪いでしょうな・・・。いくら自分の痛いところを握られているからといっても、藤孝殿が、『やめたい』と申し出たときに、うれしそうな表情をみせてはいけません・・・。ともあれ、この二人の有能な補佐役が、その後の義昭公の滅亡を急速に速めました。そして、御存知の通り御二人は信長様の補佐役として活躍するにいたるのです。

―――この藤孝殿のお話はまだつづきます。なんせ、義昭公→信長様→秀吉様→家康様と大坂の陣まで話がありますので・・・。つづく!!


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[ 2006/04/26 23:29 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)
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竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語りたいと思っております。時折、結城筑前守が登場致します。

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