半兵衛にございます。
内部に混乱が起これば、当然の如く組織の力は低下し、指揮系統は乱れ、ついには組織の態をなさなくなるものです。では根本は何か、
派閥です。軍学書では口を揃えております。つまり組織に派閥ができれば、それによって乱れが生じ、派閥間の闘争が組織そのものを自滅させるということです。悲しいことに武田家の滅亡が、これに相当しております。
信玄公の後継者となった勝頼どのは、もともと四男で相続権をもっておりませんでした。諏訪の地を任されて統治していた一部将にすぎませんでした。しかし、長子の太郎義信どのは信玄公と外交政策上の意見の対立から失脚、自害し、勝頼どのが後継者の地位につくこととなりました。(次男は盲人、三男は十一歳で夭折しているため)当然、勝頼どのの周辺には信濃国諏訪出身の者が多く集まります。
信玄公が健在なうちは、それでも表立ったことはありませんでしたが、この偉大な総帥者が死ぬと、甲斐国と信濃国の派閥争いが家中に起こり、両者の仲介役として
長坂光堅や
跡部勝資が内務官僚として頭角をあらわしました。彼らこそ、以前お話した
直江兼続どのの賄賂を受け取ったとされる人物であります。
彼らは甲信両国間を調停しながら、その実、自己の派閥をつくり、その力で、以前から煙たい存在である信玄公時代からの老臣、部将を次々に追い落とし、武田家の実権を握っておりました。こうなってしまっては、武田家の先は見えております。忠臣、勇将の多くは、
光堅、
勝資らが主張した無謀としかいいようのない長篠の合戦に駆り出され、大半が戦死。勝頼どのが気がついたときには、すでに武田家の柱石はガタガタになっており、いかにつくろっても亡国はまぬがれない状態となってしったのです。
さらに敵にとっても、この派閥争いは利用できるものであり、派閥というものも考えものであるというわけです。