半兵衛の草庵

竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語るブログ!

危機的状況に強い片倉小十郎 其之一 

半兵衛にございます。本日は伊達家の補佐役・片倉小十郎殿にスポットをあててみたいと思っております。

小十郎殿の慎重な知謀性は伊達家二六〇年の経営活動の中で、伊達家が危機に陥ったときに必ず発揮されているのです。つまり伊達家が滅ぶか、生き残れるかというときに、補佐機能が最大に発揮されるのです。

例えば…

政宗殿が豊臣政権に屈服するか、徹底抗戦するかの選択に迫られたとき
いわゆる『伊達騒動』が起こり、伊達家そのものが滅亡の危機に瀕したとき

明治維新時、東北諸藩が混乱状態になり、最大の藩である伊達藩が全体のイニシアティブ(主導)をとらなければならなくなったとき

などです。

伊達家を襲ったこの『危機のサイクル』に、その都度補佐役の立場を貫き、大勇断をもって主家を生き残らせたのは、すべて片倉小十郎殿でした。特性としては、生き残ることに強い補佐役であるといえるでしょう。

もちろん、片倉小十郎景綱殿が生き残っていたわけではなく、『小十郎』とは片倉家の当主が最後まで名乗った通称です。ですから、政宗殿を補佐したのも小十郎殿。伊達騒動を切り抜けたのも、明治維新時の混乱を乗り切ったのも、小十郎殿というわけです。

話はズレましたが、小十郎殿がいかに『生き残ることに強い』特性をもった補佐役であっても、必要なときに十二分に発揮されなければ意味がありません。ところがこの特性の発揮は、どんな場合においても周囲から好感と拍手で迎えられるとは限りません。現代でもこのような特性を発揮しようとすると、まわりから足を引っ張られることが多々ありますよね???

足の引っ張り合いなどやっている場合でないとはっきりわかっているのに、その特性が行賞に結びつくと考えられると、ハイエナ的人物がよってくるものです。『組織を生き残らせる』という大事を忘れてしまうのです。理屈ではわかっていてもどうしようもないことがあります。それが、個人や組織の栄枯盛衰が人間の思い通りにいかない原因であり、それゆえに『天』や『運』が登場してくるのでしょうな。

では、『生き残ることに強い』特性とはいかなることか、片倉小十郎景綱殿のお話しでご理解いただこう。

・・・つづく


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[ 2006/06/29 22:38 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(3)

坂東武者の強さとは…? 其之一 

半兵衛にございます。東国(坂東)の武将は一般的に強いと言われます。とくに十世紀あたりから騎馬武者というものが登場してきます。なぜ、騎馬武者集団が多くあらわれたのか?今日はそのお話しを…。

坂東とは、碓氷・箱根両山にある、常陸(茨城県)・上野(群馬県)・下野(栃木県)・武蔵(埼玉県・東京都・神奈川県東部)・下総(千葉県北部と茨城県南部)・上総(千葉県中央部)・安房(千葉県南部)・相模(神奈川県)の八ヶ国の地域を指し、古来、坂東人の気質は勇猛果敢であったといわれております。

さて、坂東の地は律令政府にとってどのようなものであったか?

兵士徴発と放牧のための地に等しかったといわれております。、その肥沃で雄大な平野、広壮な山川という自然環境から牛馬の牧場として適しており、左右馬寮所属の皇室の馬を養成する牧場である御牧(みまき)が、信濃(長野県)・上野甲斐(山梨県)・武蔵の四ヶ国のなかに合計三十二ヶ所も置かれました。また、兵部省兵馬司の管轄で、軍用の牛馬を養成する国牧(くにまき)が、九州地方とともに関東地方に多く分布していたという点からも、当時、東国の地が有力な馬匹生産のための牧場であったことがわりますな。

さらに坂東の人たちは、古来、律令政府の命により、遠く九州沿岸防備の防人に赴かされたり、蝦夷地鎮圧の第一線の兵士として、あたかも消耗品の如く扱われてきました。しかし、平安時代に入り、兵乱が少なくなると、律令政府は農民の徴兵による軍団を廃し、武芸達者なものを集めた健児(こんでい)の制に切り替えましたが、坂東の民だけは陸奥(福島県・宮城県・岩手県・青森県)・出羽(山形県・秋田県)などの蝦夷の叛乱鎮圧のために、たえず駆り出されたのでした。

そんな中、坂東の騎馬武者の頭目である平将門や藤原秀郷らが登場してくるのです。

つづく


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前田利家に学ぶ!最期の時まで見せる律儀と『ばさら』精神! 

半兵衛にございます。先日、利家殿の不遇時代の友人分類法を御教え致しました。本日も不遇経験を生かしたエピソードを御紹介致します。

それは利家殿の臨終間際のお話です。利家殿は経理担当を呼んで、『今まで、わしのために出した裏金関係の書類を持ってこい』と言いました。担当はびっくりし、『な・・・何のためでございますか?』と顔色を変えました。

担当は『殿は臨終の際に、私の経理方法をお咎めになるのだろうか?』と震えながら、書類を抱えて持ってきました。病床で利家殿は一枚一枚の紙に鋭い眼を走らせ、書類を見ながら二つに分けたのです。そして全て見終わると、担当に言いました。

『知らなかったぞ・・・。ここまで御主に苦労させていたとは・・・』

『は?』

『苦労をかけた。すまない、礼をいうぞ・・・。』

『そんな・・・仕事でございますから』

『ところで・・・』

そらきた!と担当は真っ青になりました。しかし、利家殿はこう言いました。

『二つに分けた書類のうち、こっちはこの理由で支出できる。が、こっちは無理だ。重臣と相談してつくり直せ。この書類は焼いてわしの棺に入れろ。わしが冥土にもっていく!』

そういって利家殿はこんなことをつけ加えたそうです。

『たとえ息子がわしの跡を継いでも、二代目には二代目の方針があり、新しい側近も育つ。そうなるとわしの側近だった者が逐われる。逐う理由の一つは前代時代の不正支出だ。苦労したお主にそんな思いをさせたくない。きっちり決着をつけて、わしの死後、お主が人事上の不利益を被らないようにしていきたいのだ。わしの息があるうちに早く書類をつくり直せ。判を捺して、花押を書く。』

担当は声を失って平伏し、肩をふるわせていたそうです。利家殿の死後、この担当は逐われずに栄進したそうです。

また、死ぬ直前、利家殿の妻・まつ殿が利家殿に、『これをお召しください』と経カタビラをすすめました。ところが、利家殿は笑って退け、『わしは仏のゆるしを乞うような悪いことは、何ひとつしていない!冥土で邪魔する者は斬る!』といって刀を抱いたまま死んだといわれております。死に面してまで、『ばさら精神』、『かぶき精神』を貫いて死んでいった律儀さには、頭がさがりますな・・・。


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前田利家に学ぶ!友人分類法 

半兵衛にございます。

みなさん、前田利家殿を御存知でしょう?彼は若い頃、しばしば『不遇の状況』に陥りました。主人である信長様や秀吉様の勘気をこうむって退けられたのです。これは主として彼の、『正義感と表現のズレ』に起因しております。つまり彼は、非常に高い正義感をもっているのですが、表現がとぼしかったのです。その少ない言葉で、あふれる正義感を表現するものだから、つい激しい言葉になり、響きも強くなるのです。

利家殿は若い頃、『ばさら者』あるいは『かぶき者』と呼ばれました。異様な服装をし奇矯な振る舞いが多かったからです。『ばさら』とは仏教用語『常人とは違う振る舞いをする者』のことであり、『かぶき』『傾く』からきており、つまり世の中をななめに見て、常識から逸脱する人間のことをこう呼びました。

話はズレましたが、利家殿が信長様に退けられたのは、信長の寵童を斬殺したためです。これには諸説ありますが、大河ドラマ『利家とまつ』では、まつ殿からもらった笄を、信長の寵童に盗まれ、信長様の眼前で斬り殺したことにより退けれておりました。

この不遇時代に利家殿は面白いことを悟ったそうです。それは自分を訪ねてくる友人たちの分類と分析です。まず『信長様に退けられてから、まったく訪ねてこなくなった者』『相変わらず訪ねてきてくれる者』の二種類に分け、『相変わらず訪ねてきてくれる者』をさらに次のように分けています。

一、本人が不遇であって、『いい仲間が増えた』と喜んでやってくる者。

二、あれだけ信長様に怒られたのだから、少しは心をいれかえておとなしくなったかな、と様子を見に来る者。

三、反抗心旺盛なあの男のことだから、どうせ不遇に甘んずることなく、おそらく信長様に対してよからぬ企てをしているに違いない、その兆候をつかんで信長様に報告してやろう、と偵察にくる者。

四、いままでさんざん正義派づらをしていて小面憎い、おちぶれた様子を嘲笑してやろう、とやってくる者。

五、『わしは前々からこうなりはしないかと心配していた』と心配を吐露する者。

これを見る限り、利家殿は人間観察力に富んだ方だったのでしょう。この分類と分析は現代にもそのまま当てはまりますな。それでは利家殿のことを案じて来てくれる本当の友人は皆無だったのか?いえいえ、利家殿の追懐によれば、『来てくれたのは、わずかに柴田勝家殿と森可成殿の二人だけだった』と・・・。この追懐に我が君・秀吉様の名はなく、頭のよいお方だったので、多少さけていたのでしょう。

こういう分類と分析をしたあと、利家殿は次のように総括致しました。

『人間は非運の底に沈んでみなければ、友の善悪もわからない。もっと大切なのは、そのときになって初めて自分の心がわかることだ。兄弟のように仲良くしていた友や、わしが目をかけていた後輩のほとんどが、信長様に同調した。いや、それだけでなく自分からわしの悪口をいい、讒言(ざんげん)する者さえいた。情けないことに、不遇になると自分の心がひがむ。だからそういうことを聞くと、響きは何倍にもなって胸にこたえる・・・。不遇のときの友こそ、真の友だ』

利家殿の友人分類法で、みなさんの友人をふるいにかけてはいかがかな(笑)


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真田幸隆に学ぶ!小手先で大軍を攪乱させる術 

半兵衛にございます。

さて天文二十年前後のこと、上杉謙信公が、遠からず川中島に出陣するであろう、と予測した男がいました。武田家の謀将・真田幸隆殿です。幸隆殿はその具体的な日程を知るため、自ら商人に変装して川中島へ赴きました。謙信公の川中島出陣は、信濃に残る反武田勢力(村上氏・木曽氏・伊奈氏)との連合で行われるのが常でありましたから、双方の使者が川中島を往来しているに違いない、と見当をつけていたのです。

すると怪しい僧が一人。幸隆殿はこの僧に病と偽って、『深志の里まで同道してはくれまいか』と頼みました。僧も相手が病人とあっては嫌とも言えず、深志まで同道することとなりました。この僧をやはり怪しいとみた幸隆殿は、途中、会田の宿で僧の衣服を調べ、謙信公から信濃の国人たちへあてた書状を盗み見ることに成功したのです。

それによれば、謙信公の川中島出陣は『二十一日』と記されていたそうです。これでは武田方の迎撃態勢が整わないかもしれない。今、謙信公に川中島に出てこられては、苦労して攻略した信濃の地域を、根こそぎ上杉方に攻め取られないとも限らない。幸隆殿は考えあぐねた末に、書状の日付を『二十三日』と改ざんすると、もとの場所に書状を納めて、深志で僧と別れ、すぐさま使者を甲府に仕立てました。

信玄公が準備もそこそこに甲府を進発したのが十八日、塩尻峠到着が十九日。謙信公の到着を二十三日と心得て準備していた信濃の反武田勢力は、突然現れた甲州軍団に周章狼狽し敗走。そのため二十一日を期した謙信公も、共同作戦がとれずに出陣を断念したといわれております。

少し作り話的な感もありますが、小手先のその場しのぎであっても、ときとしては大軍を惑わし、攪乱することもできる、という点は学べるところではないでしょうか?でわ!


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織田信長の七日間にわたる葬儀 

半兵衛にございます。昨日は本能寺の変の日でしたが、それを書いていてはおもしろくないなと思い、信長様の葬儀について記したいと思います。

信長様の死後、周知の通り、織田陣営内での派閥抗争もあり、正式の葬儀もなかなか行われませんでしたが、天正十年の十月になり、ようやく京都紫野大徳寺蓮台野にて盛大に執り行われました。葬儀は十月十一日より十七日にかけて七日間にわたって行われましたが、その中心は十五日の葬儀でした。

棺は金紗金襴をもって包まれ、葬儀殿の軒の瓔珞(ようらく)、欄干(らんかん)の擬宝珠などはみな金銀がちりばめられ、八角の柱には赤と青の彩色がほどこされておりました。もちろん信長様の遺体などはあるはずもなかったので、棺の中には沈香(じんこう)を彫刻した仏像が納められました。

大徳寺から蓮台野まで、およそ千五百間の路次には、弓・箙(えびら)・槍・鉄砲を立てた警固の侍が三万ばかり、路の左右に配されました。祭礼の場には秀吉様の家臣はもとより、諸大名・小名らもことごとく参列いたしました。その他見物の貴族や庶民が雲霞のように群集していたそうです。棺をのせた御輿の前轅には池田輝政殿、後轅は羽柴於次丸秀勝殿(信長四男)がそれぞれかつぎ、位牌と太刀は秀吉様がもっておりました。そのあとに二列に連なって従うものおよそ三千余人、みな烏帽子・藤衣の装束でありました。

五山をはじめとして洛中洛外の禅僧や諸宗の僧侶の数もはかり知れぬほどで、五色の天蓋が陽に輝き、幢旛(どうばん)が風にひるがえり、沈水の煙は雲の如く、灯明の光は星にも似ていました。供具・盛物・亀足・造花、七宝、荘厳をなし、まことに極楽浄土に五百の阿羅漢、三千の仏弟子がいるさまを眼前にみるようであったといわれおります。

警護の兵に三万とはかなりすごいものですな・・・。貴族・庶民が雲霞の如く集まることもうなづける、信長様の葬儀の話でした・・・。でわ!!



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[ 2006/06/03 23:21 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(1)

稲葉山城攻略について 

半兵衛にございます。さて織田信長様が稲葉山城(現・岐阜城)を攻略するのに幾年かかったか御存知でしょうか?大河ドラマなどでは、そっけなく流れてしまいますが・・・。

東海一の太守・今川義元を桶狭間に奇襲し、自領の防衛に成功した信長様が、その矛先を美濃へ向けました。しかしながら、この方針は一見すると『暴虎馮河』のような危うさをもっております。ちなみに暴虎馮河(ぼうこひょうが)とは、虎と素手で格闘し、大河を徒歩で渡るような危ない行いという意味です。なぜ暴虎馮河な危うさなのか?

それは、東海一の強兵で鳴る美濃兵に対して、日本でも屈指の弱兵と蔑まれる尾張兵を率いて、これを併合しようとしているからです。かつて信長様の父・信秀様は尾張の旗頭として、幾度となく美濃をうかがいましたが、ついにその寸土も奪うことはありませんでした。

そこで信長様は専属家臣団を編成、それまで諸国の軍団の主力が、百姓による『農兵』であった盲点を衝き、田植えや稲刈りなどの出兵不可能な時期でも出陣できる体制を敷いて、勇猛果敢、美濃へ打って出ました。しかし、戦えばやはり美濃側が勝ち、尾張勢はかいもく歯が立ちませんでした。いいかえれば、この戦法ではいつまでたっても美濃の堅城・稲葉山城を落とすことはできないということです。

そこで信長様は人材登用を並行して進め、小物から昇進してきた木下さんを抜擢し、しきりと美濃側の逸材を味方に引き込む工作に従事させたのです。しかし、それでも稲葉山城は落ちません。ついに信長様は、美濃の領内、城の喉元近くの墨俣へ野戦城塞を建設することを決断なされたのです。

『橋頭堡』を築く・・・これほど至難の仕事はござりますまい・・・。己の領内に敵の出城を築かれて、黙っている相手などいるわけがありません。美濃方の迎撃は想像を絶しておりました。織田方の柴田勝家殿や佐久間信盛殿といった歴々の将が、この難題に挑みましたが、ことごとく失敗しております。

ついに木下さんにチャンスが巡ってきたわけですが、この話は『太閤記』などの書物にあるように、誰もが周知の話なのであえて話はしません。重要なことは橋頭堡を築けるか築けないか。

しかし、橋頭堡の築く前にしておかねばならいこともございます。それは周辺隣国からの攻撃です。敵は美濃勢だけではない、ということです。そのため信長様は、尾張国内を固め、後背地域は三河の家康様に任せ、全てを美濃へ力を注いだのです。つまりこれらの行動は、墨俣への橋頭堡を築くための布石であり、絶対条件だったのです。

こうして美濃は、国主・龍興殿が逃亡。信長様は尾張・美濃併せて百万石を超える領地を手に入れ、天下布武のスローガンを打ち出し、天下統一へと駒をすすめるに至るのです。

結局、何年かかったか?―――桶狭間の奇跡より七年の歳月をかけ、併合したのです。七年をはやいとみるか、遅いとみるかは個人の問題で、皆様方が思慮なさってください。でわ!!


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竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語りたいと思っております。時折、結城筑前守が登場致します。

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