半兵衛にございます。さて織田信長様が稲葉山城(現・岐阜城)を攻略するのに幾年かかったか御存知でしょうか?大河ドラマなどでは、そっけなく流れてしまいますが・・・。
東海一の太守・
今川義元を桶狭間に奇襲し、自領の防衛に成功した信長様が、その矛先を
美濃へ向けました。しかしながら、この方針は一見すると
『暴虎馮河』のような危うさをもっております。ちなみに
暴虎馮河(ぼうこひょうが)とは、
虎と素手で格闘し、大河を徒歩で渡るような危ない行いという意味です。なぜ暴虎馮河な危うさなのか?
それは、東海一の強兵で鳴る美濃兵に対して、日本でも屈指の弱兵と蔑まれる尾張兵を率いて、これを併合しようとしているからです。かつて信長様の父・
信秀様は尾張の旗頭として、幾度となく美濃をうかがいましたが、ついにその寸土も奪うことはありませんでした。
そこで信長様は専属家臣団を編成、それまで諸国の軍団の主力が、百姓による
『農兵』であった盲点を衝き、田植えや稲刈りなどの出兵不可能な時期でも出陣できる体制を敷いて、勇猛果敢、美濃へ打って出ました。しかし、戦えばやはり美濃側が勝ち、尾張勢はかいもく歯が立ちませんでした。いいかえれば、この戦法ではいつまでたっても美濃の堅城・稲葉山城を落とすことはできないということです。
そこで信長様は人材登用を並行して進め、小物から昇進してきた
木下さんを抜擢し、しきりと美濃側の逸材を味方に引き込む工作に従事させたのです。しかし、それでも稲葉山城は落ちません。ついに信長様は、美濃の領内、城の喉元近くの墨俣へ野戦城塞を建設することを決断なされたのです。
『橋頭堡』を築く・・・これほど至難の仕事はござりますまい・・・。己の領内に敵の出城を築かれて、黙っている相手などいるわけがありません。美濃方の迎撃は想像を絶しておりました。織田方の
柴田勝家殿や
佐久間信盛殿といった歴々の将が、この難題に挑みましたが、ことごとく失敗しております。
ついに木下さんにチャンスが巡ってきたわけですが、この話は『太閤記』などの書物にあるように、誰もが周知の話なのであえて話はしません。重要なことは橋頭堡を築けるか築けないか。
しかし、橋頭堡の築く前にしておかねばならいこともございます。それは周辺隣国からの攻撃です。敵は美濃勢だけではない、ということです。そのため信長様は、尾張国内を固め、後背地域は三河の家康様に任せ、全てを美濃へ力を注いだのです。つまりこれらの行動は、墨俣への橋頭堡を築くための布石であり、絶対条件だったのです。
こうして美濃は、国主・龍興殿が逃亡。信長様は尾張・美濃併せて百万石を超える領地を手に入れ、天下布武のスローガンを打ち出し、天下統一へと駒をすすめるに至るのです。
結局、何年かかったか?―――桶狭間の奇跡より
七年の歳月をかけ、併合したのです。七年をはやいとみるか、遅いとみるかは個人の問題で、皆様方が思慮なさってください。でわ!!