半兵衛にございます。酒井忠次殿のお話しがまだ完結してませんでしたので、本日完結致す所存。
さて家康様の性格は複雑です。『タヌキ』やら『腹黒い』などといわれますが、そういう意味でも大変複雑な性格の方です。忠次殿にとってもはや、昔一緒に過ごした竹千代ではないのです。見抜けなかったのが忠次殿の不幸だったかもしれません。この忠次殿に対して、天はさらなる不幸を与えました。
それは忠次殿が、天正七年に犯した罪を、家康様が改めて問うたことです。
天正七年の罪とは、桶狭間で今川義元を倒した信長様はその後、勢力を拡張するために、人質から解放された家康様と同盟(清洲同盟)をしました。そのために政略結婚が行われましたが、信長様の娘は一面スパイの性格をもっていたので、家康様の嫡男・信康とその母・築山殿について、いろいろと悪い報告を父(信長様)にしました。『
自分の夫・信康とその母・築山殿は、ひそかに武田に通じて、徳川家と織田家を滅ぼそうとしている』と密告しました。なぜこの行動に出たのかには諸説ございますが、省きます!いずれにせよ、信長様はこれを黙殺しませんでした。そして忠次殿に『
申し開きをしにこい!』と命じられました。
本来、これはおかしな話しです。忠次殿の主人は家康様であって信長様ではありません。その家康様の部下に対して、信長様が直接名指しで、申し開きにこい、というのは越権です。忠次殿は断るべきでした。ところが、忠次殿は信長様に命じられたとおり、すぐ信長様の城へ行ってしまったのです。
結果は御存知の通り、信長様の忠次殿に対する尋問は厳しく、忠次殿は驚き、動転し、十分な申し開きができませんでした。忠次殿は戦場で先頭を切って走り出すのは得意でしたが、こういう交渉事やあるいはウソをついてその場を切り抜けるということが不得意でした。それを見越して信長様は、忠次殿を名指しで呼び出したのです。こうして家康様の嫡男・信康は切腹させられ、母・築山殿も殺されてしまいました。このことは、徳川家に大きな傷跡を残し、忠次殿は『
裏切り者』というようなまなざしを、しきりに投げつけられてしまったのです・・・。
天正十六年、忠次殿は、子供に家督を譲り隠居しましたが、このときすでに目は見えなくなり、やがて慶長元年、一人寂しく死んでいったそうです。
家康様は天正十八年、関東に入国し、功労のあった家臣団に知行をあたえましたが、四天王のうち三人は、すべて十万石以上の知行をもらいましたが、忠次殿の息子だけは、わずか三万石しかあたえられませんでした。このことに不服を訴えた忠次殿に家康様は、『
お前も我が子が可愛いか』と信康事件の不手際を難詰されてしまったのでした。
補佐役の『
トップに対する研究』がいかに大切かということを、酒井忠次殿から学んで頂けましたでしょうか???
酒井 忠次(統率81、政治70、知略61、教養59)
松平氏譜代の家臣・左衛門尉酒井家当主・酒井忠親の子。徳川家康にとって義理の叔父にあたる。家康の今川人質生活時代をともにし、桶狭間以降、
『東三河衆』を率いて戦功をあげ、徳川四天王の筆頭格にあげられる。