半兵衛の草庵

竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語るブログ!

筑前思ふ・・・ 

お初にお目にかかります。結城筑前守と申します。半兵衛殿ばかりで、いささか疲れもうした・・・。というわけで、今日はこの筑前がちょっと思ふことを書き記したいと思います。

なにやら最近、もみじの木の枝ぶりがすごく好きになってきた。御老体達が盆栽にハマルのがわかる気がするのです。枝ぶりが芸術だね。ここのとこ、ガーデニングにハマッてしまい、まだ小さいもみじの木を植え替えし、大きくなるのを心待ちにしている毎日です。

わたしが住んでいる場所は、長篠の戦いで討死した鎌原筑前守がゆかりの土地で、自然が残るすばらしい場所です。なので、わたしの家のまわりは森です。いろんな植物がさいており、まぁともあれ、はやく大きくなってほしい今日この頃。

さて話はかわりますが、土地柄上いたるところで六文銭を見かけます。個人的に好きな六文銭を見れる場所というのがあります。そこは長野県上田市の上田駅です。駅のライトまで六文銭なのです。昼間はわかりにくいですが、夜になるとよくわかります。真田信繁殿の銅像も出迎えてくれ、真田好きにはたまらない街だと思います。

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御覧のように非常にわかりにくいです。『なんだ?あの四角い突起物は?』と思う方もいると思いますが、あの突起物の一つ一つがライトになっていて、夜になると六文銭になるのです。一度御覧あれ。でわ!

    
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[ 2006/05/30 22:13 ] 筑前思ふ・・・ | TB(0) | CM(0)

戦場にはためく軍旗 

半兵衛にございます。

さてさて源平時代に使用された華美な大鎧にくらべ、鉄を用いて堅牢さに重きをおいた戦国時代の甲冑は、さまざまな禽獣をかたどった兜などがありますが、基本的には地味でした。そこで武将たちは、戦陣にさいして自己の存在を明示するための軍旗・指物・馬印などを工夫したのです。

まず軍旗とは、祭事・仏事・祭礼などに用いる旗に対して、軍陣用の旗をいいます。源平時代には紅白の旗によって敵味方を表しましたが、やがて武士団の間にも、家紋や神仏の名号を書いた軍旗が用いられるようになったのです。なかでも、武田信玄公の『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』、いわゆる『風林火山』の旗や『諏訪南宮上下大明神』の旗、上杉謙信公の紺地日の丸や、『』、『』などの一字を記した軍旗などがよく知られております。

指物差旗・背旗ともいい、戦陣のさい具足の背後の指筒(さしづつ)に差し込んで用いました。材質は紙、布、革、竹などの軽便なもので、形は幅約60cmと長さ約90cmの割合にしてつくった四半(しはん)といわれる小型の旗や、鯨骨や竹で籠のように仕立てて布で覆い、風をはらませる母衣(ほろ)など、各人の好みに任せてつくり、家紋や姓名・神仏の名号、動植物や器物などの図様をつけ、ときには数名が同じものを用いて相標(あいじるし)とすることもございました。

馬印は馬験・馬標とも記し、総大将の本陣に立てるものを大馬印、配下の武将に用いるものを小馬印と称し、ともに従士の馬印もちに立たせて進軍いたしました。形状も、信長様の金の傘、秀吉様の金瓢、家康様の七本骨に日の丸などをはじめ、思い思いの工夫がこらされました。

軍旗は源平のむかしから用いられましたが、指物と馬印は戦国時代の末に現れたものです。これらはいずれも戦陣における全軍統合の象徴であり、敵に武威を示す、戦国武将にとって大事な大事な戦具でありました。


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[ 2006/05/28 22:33 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(0)

真田信繁(幸村)の先制攻撃案・・・ 

半兵衛にございます。

さて兵法というものは、勝利できる条件がそろわなければ、守備を固めて戦うべきではありません。逆に、勝機を見出したならば、すかさず攻撃に転じなければならないのです。この条件の兵法をくりだせなかったのが、大坂の陣です。

――兵の利は先んずるを本とす。篭城は確かなる後詰なくば敵に気を呑まれ、士卒退屈怠り自ら気力衰へ、降参返り忠あるものなり――

上記の文は、大坂の陣を目前に真田信繁(幸村)殿が、再三にわたり建策した戦術論の一端ですが、およそ勝運のない戦いにおいて、徹頭徹尾、合戦回避の努力をしながら功を奏さず、やむをえず開戦となった場合、つまり攻守のバランスがとれないにも関わらず、戦争に踏み切らざるをえなくなったときはどうすべきか、信繁殿のこの主張しかなかったと思われます。

信繁殿はほとんど勝ち目のない大坂の陣において、まさに『回天』ともいうべき策――先制攻撃を進言しました。この先制攻撃には、三つの長所・利点がございます。

一、ときに奇跡ともいえる大勝を得る可能性があること。

二、味方の士気低下を防止できること。

三、『返り忠』、つまり裏切者をださずにすむこと。

これは桶狭間の戦いに近い兵法といえるでしょう。このときも篭城案が多数を占めましたが、『確たる後詰(援軍)がなければ気を呑まれ・・・』とあるように、信長様には確たる後詰がございませんでした。それを士気低下を防ぎ、併せて裏切者をださずに大勝をおさめるには、先制攻撃しかなかったともいえるでしょう。

しかし大坂の陣においては、終局の勝利は疑わしいといえます。なぜなら戦争の勝敗は、

一、国土の広狭

二、資源の多寡

三、人口の多少

四、戦力の強弱

五、勝敗の帰趨

の五大要素によって決せられているからです。つまり、国土、資源、人口のなる国は、戦力も強大で、したがって勝敗の帰趨もおのずから明らかになるからです。大坂の陣の時の徳川勢は上記に示す五大要素をいずれも満たしており、一時の勝利はおさめれても、もはや大坂方の敗北は必至であるのは自明の理というものです・・・。

・・・話はだいぶずれてしまいましたが、徹頭徹尾合戦回避が望ましいことではありますな・・・。


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[ 2006/05/26 22:53 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

センゴク4巻紹介 

半兵衛にございます。今日は『センゴク4巻』を御紹介したいと思います。3巻は、明智十兵衛光秀殿と合流したところで終わってしまいました。

金ヶ崎の退き口では、主だった文書に明智光秀殿の名前はありませんが、『武家雲箋』にはその名が記してあるので、この漫画では合流したことになっています。そこで明智殿の鉄砲戦術が披露されるのですが、その名も『殺し間』。
鉄砲は弾丸の射線が一つでは効果が薄いので、正面から撃っても最初の兵しか殺せない、そこで囮を使い、軍団を集中させてから射線を二つにし一点に弾丸を交差させる・・・、その弾丸の交差点こそが『殺し間』というわけです。とまぁ、この戦術が実際使われたかどうかは存じませんが、木下さんは無事京に辿り着けたわけです。そしてついに『姉川の合戦』編へと突入するのです。

とうの私は、木下さんに『稲葉山の乱のときの、お前がほしい』といわれ、木下さんと仙石権兵衛くんの成長ぶりを目の当りにし、ニートを脱却致しました。そして手土産に、長比城堀二郎秀村殿を織田方に寝返らせたのです。長比城は小谷城と佐和山城の中間地点にあり、長比城が織田軍のものとなると、小谷城と佐和山城の連絡及び補給・援軍を絶つことができるのです。つまり、佐和山城の陥落は時間の問題だということです。

そして織田軍は虎御前山に布陣し、あらゆる手段で浅井長政殿のおびき出しを試みますがいっこうに出陣しません。そこで私が信長様に呼び出され、計をしめせと仰るので、『後詰の計』というものを提案致しました。簡単に申せば、『弱者保護』の精神を利用した計と申しましょうか。くわしい内容は漫画をお読み下さい。

姉川の合戦で忘れてはならないのが、三河の大殿・徳川次郎三郎家康様です。初登場です。自陣にて博打をなさってます。最後の『どんな答えか賭けるかね?』と仙石権兵衛くんに問うシーンが印象です。

1570年6月26日、ついに姉川の合戦の開幕か???

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理解されない二代目・武田勝頼 

半兵衛にございます。本日は長篠の合戦がおこなわれた日に候・・・。この戦いにより、武田家は崩壊への道をたどってしまうわけですが・・・。

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戦国最強を謳われた武田家が、弱小国甲斐を信玄公が一代で『超優良企業』に仕立てあげ、『武田二十四将図』に描かれた逸材をはじめ、名の知られていたない者を含めると雲霞の如く輩出したにも関わらず、崩壊してしまいました・・・。甲州流軍学の兵法書『豹業品』には、

―――勝合戦ばかりにあひたる国持は、負けて滅亡する。前代父名将有道の備を以て勝利あるに、子息其光なされ、唯剛強にて勝と存じ、能き家老のよき異見を用ひず、姦人の気の合ふ様に申するを誠にして、おごりて備違ひなされまじき合戦ありて、必ず負けて、終(つい)に国亡ぼすも勝合戦ばかりあひたるゆゑなり―――

とあります。武田家が『無敵』、『最強』、『常勝』の冠を得て人々に称賛されたのは、信玄公がそれに見合う努力をしたればこそで、後継者・勝頼殿の存在はその『七光』にすぎません。それでいて、偉大なる父・信玄公を超えようとした勝頼殿は、兵馬を動かし、名将たらんと活動しました。重臣の諫言を容れず、耳に心地よい言葉のみを聞き、『姦人』を近づけて、わずかばかりの勝利におごっては、もはや周囲の手のつけようがありません。

しかしながら、『勝頼殿が悪い!』とか『凡将だ!』などと言ってはいけませんよ。そもそも後継者に勝頼殿を選んだのは、父・信玄公です。さらに、勝頼殿を後継者に選んだ段階で、補佐すべき『ナンバー2』や、軍師、参謀を確定し得なかった信玄公にこそ、真の責任があるのでは???とも思ってしまいます・・・。

武田家では、信玄公の本来の後継者には、長子・太郎義信殿に決まっておりました。義信殿は、父や老臣達の苦労の時代を見て育っていました。しかしこの父子は、駿河侵攻作戦を前にして、その賛否をめぐって衝突。義信殿は自説を固執し翻しませんでした。ために自害させられたのです。よくよく考えてゆくと、武田家の歯車はこの事件から狂いだしたのでは・・・とも思います。

勝頼殿は伝えられる限り、ほとんど信玄公に逆らったことのない人でありました。信玄公に忠実で、決して信玄公を感情的に激させることはしておりません。難しい問題ですし、学ぶべきことが多いと思います。しかし、勝頼殿の心情も察してほしいものです・・・。如何せん、父が偉大すぎた・・・。これぞ最大の悲劇・・・。でわ!

    
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[ 2006/05/21 23:43 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(4)

織田信長と雨と軍配者 

半兵衛にございます。ふと外を見れば雨・・・。そして5月19日。お気付きでしょうか?永禄三年五月十九日・・・。大きく日本史の方向を変えた桶狭間の戦いがおこなわれた日でございます。

戦国時代はタブージンクスというものが根強くあり、覇王・信長様であっても、決してタブーやジンクスから解き放たれていたわけではありません。信長様は無神論者のイメージが強いですが、いざ出陣となると、あらゆる作法をつかさどる『軍配者』が身近に不可欠でした。そして桶狭間の戦いの前後、信長様の許には豊前国出身の伊束法師と呼ばれる『軍配者』が身近にあり、ふだんは僧侶として尾張国葉栗郡の光明寺に住し、ときおり兵書を講じたそうです。

おそらく伊束法師は、戦の作法をつかさどったと思われますが、これには作戦面での具体的なアドバイスは含まれてなかったようです。主君・信長様に意見を求められて、『武経七書』とよばれる兵書を紐解きつつ、一応の意見を答えたことはあっても、あくまでもそれが法師の専門ではなく、期待されたのは、『観天望気』、わかりやすくいえば、今日の天気予報です。戦いの日が晴れるのか雨になるのか、また、風は強いか弱いか、吹くならば風は何処から吹いて何処へ流れるのか。これは大将のみならず、部下を率いる将領にとって重大な問題でした。

桶狭間の戦い―――この奇襲戦が成功するか否かは、その日の天気が大きく左右していたといっても過言ではありません。信長様率いる三千弱の奇襲部隊が今川義元の駐屯する桶狭間に近づいている頃、付近一帯に大雨が降り、その雨がちょうど煙幕の役を果たし、今川軍の斥候の目をくらますことになったのです。桶狭間の折に観天望気を読んだのが伊束法師かどうかは存じませんが、信長様のもとには天候をみることのできる人物がいたのでしょう。

とくに信長様の三十代以降は天候が特段の意味を持つようになります。なぜなら信長様は鉄砲を合戦に取り入れるようになるからです。というのも、鉄砲が種子島に伝来して以来、国産鉄砲は工夫・改良が加えられ、雨でも火縄の火が消えないようにと、銃身に雨覆をかぶせたりして、鉄砲そのものは使えるようになりましたが、厄介なのは湿度で、高いか低いかにより、火薬(硝石・木炭・硫黄)の調合の量が微妙に違っていたのです。こればかりは、戦う日の天候をいち早く知る以外に工夫の余地がありません・・・。

ふとカレンダーと外の天気をみて思いました。でわ!


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[ 2006/05/19 23:34 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(3)

危急存亡の秋(とき)!高坂昌信の献策とは? 

半兵衛にございます。さて高坂昌信殿を御存知でしょうか?御存知でしょう。武田家好きなら誰でも知ってる、高坂昌信殿です。武田二四神将にかぞえられ、武田四名臣にも連なる戦国屈指の名将です。

タイトルの『危急存亡の秋』とは、武田家の危急存亡の秋のことです。それは長篠の合戦にて潰滅的な打撃を受けた武田家。山県三郎兵衛昌景殿、馬場美濃守信春殿、内藤修理亮昌豊殿ら多くの重臣が討死し、もはや目も当てられない状況に陥り、武田家は滅亡の危機にまで追い込まれてしまいました。そこで昌信殿は、武田家存続、再建の手段に主君・勝頼殿に三つの策を進言しました。

一、駿河・遠江の二国を同盟国の北条氏に譲り、武田家は甲信二国をもっぱら保つこと

二、上杉謙信に幕下の礼をとり、その庇護のもと信長の甲斐国侵攻を防ぐこと

三、身分の高い者の師弟の昇進を止め、代わって身分が低くとも実力のある者を登用し、甲州軍団を再編成すること

高坂昌信殿は亡き信玄公のためにも、武田家を残そうと必死の思いであったでしょう・・・。貴方なら、どの献策を採用致しますかな?つづきはREAD MOREをクリック!!


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[ 2006/05/18 23:33 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(2)

酒井忠次に学ぶ!単純な忠誠心は悲劇を生む 其之三 

半兵衛にございます。酒井忠次殿のお話しがまだ完結してませんでしたので、本日完結致す所存。

さて家康様の性格は複雑です。『タヌキ』やら『腹黒い』などといわれますが、そういう意味でも大変複雑な性格の方です。忠次殿にとってもはや、昔一緒に過ごした竹千代ではないのです。見抜けなかったのが忠次殿の不幸だったかもしれません。この忠次殿に対して、天はさらなる不幸を与えました。

それは忠次殿が、天正七年に犯した罪を、家康様が改めて問うたことです。

天正七年の罪とは、桶狭間で今川義元を倒した信長様はその後、勢力を拡張するために、人質から解放された家康様と同盟(清洲同盟)をしました。そのために政略結婚が行われましたが、信長様の娘は一面スパイの性格をもっていたので、家康様の嫡男・信康とその母・築山殿について、いろいろと悪い報告を父(信長様)にしました。『自分の夫・信康とその母・築山殿は、ひそかに武田に通じて、徳川家と織田家を滅ぼそうとしている』と密告しました。なぜこの行動に出たのかには諸説ございますが、省きます!いずれにせよ、信長様はこれを黙殺しませんでした。そして忠次殿に『申し開きをしにこい!』と命じられました。

本来、これはおかしな話しです。忠次殿の主人は家康様であって信長様ではありません。その家康様の部下に対して、信長様が直接名指しで、申し開きにこい、というのは越権です。忠次殿は断るべきでした。ところが、忠次殿は信長様に命じられたとおり、すぐ信長様の城へ行ってしまったのです。

結果は御存知の通り、信長様の忠次殿に対する尋問は厳しく、忠次殿は驚き、動転し、十分な申し開きができませんでした。忠次殿は戦場で先頭を切って走り出すのは得意でしたが、こういう交渉事やあるいはウソをついてその場を切り抜けるということが不得意でした。それを見越して信長様は、忠次殿を名指しで呼び出したのです。こうして家康様の嫡男・信康は切腹させられ、母・築山殿も殺されてしまいました。このことは、徳川家に大きな傷跡を残し、忠次殿は『裏切り者』というようなまなざしを、しきりに投げつけられてしまったのです・・・。

天正十六年、忠次殿は、子供に家督を譲り隠居しましたが、このときすでに目は見えなくなり、やがて慶長元年、一人寂しく死んでいったそうです。

家康様は天正十八年、関東に入国し、功労のあった家臣団に知行をあたえましたが、四天王のうち三人は、すべて十万石以上の知行をもらいましたが、忠次殿の息子だけは、わずか三万石しかあたえられませんでした。このことに不服を訴えた忠次殿に家康様は、『お前も我が子が可愛いか』と信康事件の不手際を難詰されてしまったのでした。

補佐役の『トップに対する研究』がいかに大切かということを、酒井忠次殿から学んで頂けましたでしょうか???


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[ 2006/05/17 21:44 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

竹中半兵衛死す・・・ 

半兵衛にございます・・・

功名が辻でのわたし、死にそうです。自力で立てない、わたし。

ごほっ!ごほっ!ぶばっ!

さて、毛利攻略途中に三木城の別所長治の裏切りにあい、さらに摂津では荒木村重殿の謀反。別所長治の裏切りは一説には、秀吉様の横暴な態度に激怒しての謀反であったともいわれております。前回の後半から謀反ばかりが聞こえてまいります・・・。

信長様は、『天の主たる、この信長に平伏すわっ!!』と唯我独尊的発想です・・・。今回の大河の信長様は、ただただ恐ろしいイメージばかりが誇張されているような気がします。本来、武をもって天下を獲ると公言しているが、その実、知をもって国を獲り、大きな威厳と繊細な配慮をもって部下を従えている名将なのですが・・・。繊細な配慮のシーンが少ない気が・・・。

後半は、わたくしの死について。『安土様(信長様)に天下は獲れませぬ』と言い、『もう少し長く生きられたなら、殿(秀吉様)の天下をともにたのしめましたのに・・・』と・・・。最後に、『わたしが生涯愛した女子は、千代殿でした・・・』といい死んでしまいました。

先週から登場の黒田官兵衛孝高殿は斎藤陽介さんが演じていますが、ダークなイメージの孝高殿だから、親しみやすい役者さんに演じてもらおうとのNHKの配慮なのでしょうか・・・。とても、秀吉様にその才覚を恐れられたイメージがわかな・・・ごほん!失敬!


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酒井忠次に学ぶ!単純な忠誠心は悲劇を生む 其之二 

半兵衛にございます。

忠次殿のお話しのつづきですが、信長様が明智光秀殿に殺されると、秀吉様が天下への道を速度を加えて走り出しました。本命とみられていた家康様は、あわてて追いつこうとしましたが、秀吉様ははるか距離をおいて先頭を走っておりました。そういう秀吉様をよく思わない信長様の遺児・信雄様は、家康様と同盟し、天正十二年、小牧・長久手の戦いの戦端が開きました。この合戦後、秀吉様は名実ともに天下人となられましたが、秀吉様は家康様に対して、必要以上に気をつかいました。家康様だけでなく、家康様の家臣にも気を使いました。とくに忠次殿のほか二、三人の勇将にいろいろ贈り物をしました。忠次殿には京都に大きな屋敷を与え、『その屋敷の維持管理費に、近江の国で千石やろう』といい、さらに、従四位下の左衛門督の官位も与えました。

忠次殿は、信長様に対したのと同じように、家康様の先輩や上位者にも忠節を尽くすことが、そく家康様のためになると考えていました。すなわち、そういうことが忠次殿が考える『補佐役としての責務』であったのです。忠次殿は秀吉様にそういう扱いをされて、これを全面的に受け入れ、屋敷も手当も位も全部喜んでもらってしまったのです。

では他の武将はいうと、『私は、徳川家康の部下です。あなたから、こんなにいろいろなものを頂くわけにはまいりません!』と断った者もいたそうです。あるいは、『主人と相談してまいります』といって、一度秀吉様の前から退り、家康様にこのことを報告した上で、改めて秀吉様のところに行き、『主人と相談してまいりましたが、とてもお受けすることはできません。御好意は、大変ありがたいと思います』と辞退する者もいたそうです。

ただただ、くれるものは全部もらってしまったのは忠次殿だけでした。忠次殿にしてみれば、『秀吉様がくださるというものをもし辞退すれば、きっと御機嫌が悪くなる。秀吉様の御機嫌がわるくなるということは、そのまま家康様に対する感じを悪くするということだ。別にほしいと思わないが私が我慢してもうらうことが、家康様への忠義につながるのだ』と考えていたのでしょう・・・。しかし、これは誤算です。つまり、忠次殿はこういう考え方を貫くことによって、それで自分がいい補佐役になっていると、信じていたのでしょう・・・。


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久々の更新になりますな・・・。 

半兵衛にございます。

センゴク9巻も発売されましたので、今日は3巻を御紹介致しましょう。わたし、3巻には1コマも登場しておりません。けど御紹介します。

まず表紙は、木下さん(秀吉様)です。なぜ木下さんかといえば、内容が『金ヶ崎の退き口』だからです。『前代未聞の撤退戦』として表記されており、熾烈を極める撤退戦でした。なので死人がわんさかとでます。

まず冒頭は、1569年1月、斎藤龍興、三好三人衆らが信長様の留守を狙い、将軍・義昭の御所を急襲した『六条合戦』からはじまります。ここで初登場するのが明智十兵衛光秀殿です。さらに援軍として駆けつけてきた浅井軍の先駆け大将・山崎新平俊秀殿です。彼らのおかげで六条合戦は鎮火しました。しかし、木下さんは減俸になってしまいましたが・・・。ここで印象に残ったのが、『自分が最善の努力をしたってだけじゃ、役に立ったってことにはならねぇんだ。おまえが仕事をした気になってるだけだ。そーゆーのは頑張ったっていわねぇんだ。』という言葉。う〜む、現代社会でも通用するんじゃないかな???

そして本題である『金ヶ崎の退き口』ですが、なぜ撤退しなければならなくなったのか?そもそもの発端は信長様の朝倉征伐にあります。信長様が将軍・義昭様の名を使って朝倉家に上洛命令を出したのですが、無視された。これにより朝倉征伐がはじまりました。そして、この朝倉征伐に頭を悩ませたのが、浅井備前守長政殿です。朝倉家と浅井家は盟友、織田家と浅井家は婚姻関係にあり、おおいに悩みました。苦悩する長政殿にたいして父・久政殿は、『天才とは凡人に見えぬ成功の光明を見る力のある者・・・しかし日陰たる他者への心遣いや事情が見えなくなる者でもある。常々信長は言っておったろう、天下を愛し寝取ると・・・。信長にとって世のすべてを捨ててでも愛す女を前にして・・・長政・・・義弟であるぬしの事情など酌むと思うか・・・?』と早々に朝倉家に援軍を出すべきだと主張。斎藤龍興の策謀もあり、長政殿は朝倉家へ援軍として出陣することになったのでした。

信長様は越前領の奥深くまで出陣しており、京への退路を浅井家に絶たれ絶体絶命。信長様は全軍撤退の決断を下し、殿(しんがり)部隊には木下さんが選ばれてしまいました。信長様は木下さんの陣へ鼓舞しにまいり、小姓の堀久太郎秀政殿を木下さんの与力に加え、さらに柴田修理亮勝家殿も鼓舞しにまいり、可児才蔵吉長殿を残しおかれました。そして、坂井久蔵くんも加わり、士気は絶頂になりました。

しかし、熾烈を極める撤退戦。この士気の高さもあっというまに、ガタガタ・・・。死人続出・・・。部隊はバラバラ状態になってしまいましたが、木下さんの『地獄の作法』により士気が高まり、敵にあたろうとしたとき!!なんと明智十兵衛光秀殿の部隊と遭遇。4巻につづく!

とまぁ、こんな感じです。


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竹中半兵衛

Author:竹中半兵衛
竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語りたいと思っております。時折、結城筑前守が登場致します。

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