半兵衛の草庵

竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語るブログ!
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酒井忠次に学ぶ!単純な忠誠心は悲劇を生む 其之一 

半兵衛にございます。

酒井忠次殿は、井伊直政殿、榊原康政殿、本多忠勝殿らとともに『徳川四天王』と呼ばれ、筆頭に位置付けられていた武将です。『徳川四天王』と呼ばれるくらいだから、家康様の信任が厚かったのだろうと思われますが、彼はあまりにも単純な忠誠心と誠実心で、徳川家にとって大きな傷跡を残してしまったのです。ただ単なる忠誠心だけで世の中渡れるほど甘くないということを、酒井忠次殿から学んで頂きたいと思っております。

忠次殿に足りなかったものとは、ずばり、『主君(トップ)を研究する』ということです。では、なにを研究するか?それは主君が公人として何を狙っているかということはもちろん、その人間性を微に入り細をうがって知るということです。忠次殿は、主君である家康様に対する人間研究が甘かったように思われます・・・。家康様は複雑な人間です。彼には『水はよく船を浮かべるが、またよくひっくり返す』という発言がございました。水を家臣におきかえれば、家康様の言わんとしていることは、はっきりしております。それほど家臣を信じなかったということでしょうな。幼少から人質になった家康様の心はひがんで、ある意味では強い人間不信感で固まっているといってもおかしくはないでしょう。忠次殿はそういう面での研究が足りなかったのです。

忠次殿は家康様がまだ竹千代と呼ばれていた時代、今川家の人質に囚われたときその供をしております。つまり、家康様と人質生活を一緒に送ったのです。やがて桶狭間の戦いで、その今川義元が信長様に殺されると、家康様は岡崎城に帰りました。この頃から、忠次殿は家康様の補佐役として活躍し始め、家康様の合戦には常に先頭に立ち奮戦してきました。

例えば、三方ヶ原の戦いは家康様が武田信玄公に大きな敗北を喫した合戦ですが、忠次殿だけは武田軍を逆に破っております。また、長篠の戦いでは信長様に進言して、大勝利の基をつくっています。忠次殿にしてみれば、信長様に進言することが、主君である家康様のためになると考えての行動ですが、家康様が忠次殿のそういう真心をそのまま受け止めていたかどうかわかりません。忠次殿は確かに家康様のことを思っています。家康様によかれと信長様に接近し、そのヒゲのチリを払い、いろいろな策を進言しては、家康様の名が上がるように努めてはおります。

―――忠次殿の忠誠心の披瀝はまるで単細胞でがむしゃらです。ただ忠誠心を目いっぱい表せばいい、というような行動ぶりに感じられます・・・。この行動が彼を悲劇に追い込んでいってしまうのです・・・。つづく!!



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[ 2006/04/30 19:24 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(1)

細川藤孝に学ぶ!退き時を知る術 其之三 

半兵衛にございます。

藤孝殿のお話しのつづきです。義昭公から信長様の補佐役になった藤孝殿と光秀殿ですが、信長様は御存知の通り、本能寺の変にて死去してしまいます。そのとき、藤孝殿は息子・忠興に、『妻の玉を離縁して牢におしこめろ』と命じました。玉殿が牢に押し込められると藤孝殿は隠居し、頭をまるめて『幽斎』と名乗りました。これらの行動はスジが通っていることにお気づきでしょうか?すなわち・・・

主人殺しの光秀殿には加担できない、したがって、息子の嫁である光秀殿の娘とは離縁し、牢に押し込める。が、自分は隠居・出家して光秀殿への友情の証とする―――

光秀殿からは、『味方になってくれ』としきりに誘いがきました。しかし、藤孝殿は首を振り続けました。天下を取った秀吉様はこの行為に感謝し、息子の忠興だけでなく、隠居した藤孝殿にも城と国を与えました。そして、やがて関ヶ原の合戦。

秀吉様から復縁を許された玉殿は、石田三成くんの人質になることを拒んで自殺いたしました。藤孝殿父子は田辺城(舞鶴城)におり、三成軍が囲みましたが降伏せず、包囲軍を釘づけにしました。いよいよ落城か、といわれましたが、このとき、時の帝・後陽成天皇が、『細川ほどの歌人を殺すのは惜しい。囲みを解け』という勅語を石田三成くんに出しました。こんな例はございません・・・。三成くんは囲みを解いたのでした。

これが評判になって、藤孝殿は今度は家康様に重用されます。そして大坂の陣によって豊臣家が滅びると、藤孝殿は忠興に隠居させ、三男の忠利に家を継がせました。もちろん、このとき彼は攻撃側におりました。しかし、そういう形で豊臣家への忠誠心はきちんと表明しておきました。のちに忠興は『三斎』と号し、有名な風流大名になりました。と同時に、二代将軍・徳川秀忠様の、『ご意見番』になっております。

そういえば、藤孝殿も補佐役として実際に行動したのは義昭公のときだけで、信長様、秀吉様、家康様に対しては、『御伽衆(主君の話し相手)』のポストに徹しておりました。

―――藤孝殿には、『四人の主人に仕えた世渡り名人』とか、『泳ぎ上手』などの評もございますが、それだけではないように思えますな・・・。出処進退の美しさと徹底した補佐役としての心構えが藤孝殿にあるからこそ、退いた後にも新たな舞台が用意されていた、といえるでしょう・・・。


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[ 2006/04/28 22:25 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

細川藤孝に学ぶ!退き時を知る術 其之二 

半兵衛にございます。

昨日につづき、藤孝(幽斎)殿のお話を・・・。博識・文才に加えて彼には素晴らしい才能がございました。頓知です。例えば、義昭公との放浪中に、義昭公が『書物が読みたい』と言い出しました。しかし、放浪中の身で書物も、灯火用の油もあるわけがないので、書物は旅先の旧家から借り、そして灯火の油は近くの神社で盗んできたのですが、ある夜、油を盗んでいるところを神主に見つかり、神主に怒られると、藤孝殿はこういいました。

神様は夜でも目がお見えになるでしょうから、油はいらないだろうと思いまして・・・

神主は笑い出し、実情を知り感心したそうです。そして、『これからは油を進呈しよう』と盗みの罪を咎めませんでした。

また、京都御所に呼ばれ、『歌をつくってみろ』といわれたので参内しました。しかし、はじめての参内なので御所の段でころんでしまったのです。これを見た公家たちが、『細川殿、そこで一首』とはやしたてました。苦笑いする藤孝殿は、こう詠みました。

とんと突く ころりところぶ 幽斎が いかでこの間に 歌を詠むべき

ころんでいるわたしに、どうして歌が詠めるのか』といいながら、ちゃんと詠んでいるのです。・・・補佐役にこのようなユーモア精神があれば、難しい問題もこじれずにすみますな・・・。かなり話がそれてしまいましたが、本題へ・・・。

義昭公は新しいスタートを切るにあたって、自分のドロドロした過去を知り尽くしている補佐役が、そのまま居座ることに反対するという考えでした。ですから、藤孝殿が身を退いた際に、強く引き止めませんでした。ただ義昭公を弁明すれば、公には古くからの足利家ゆかりの家臣を、大量に登用しなければならなくなったことと、上記に挙げた義昭公の考えにより、引き止めなかったのです。

そんなこんなで、藤孝殿は義昭公のもとを去りました。すると、明智光秀殿も辞職し義昭公のもとを去ったのです。これを凝視していたのが信長様です。『見事な進退だ』と二人を褒め、『客分としてわしのところに来い』と言いました。客分というのは、信長様と義昭公の連絡係になれ、ということです。これはかなり適材適所のうまい使い方です。なんせ、二人は義昭公の裏も表も知り尽くしているからです。そもそも義昭公を傀儡にしようと考えていた信長様は、二人の蓄積している情報を重視しておりました。そして巧みにそれを義昭公の傀儡化に利用したのです。

これは義昭公が悪いでしょうな・・・。いくら自分の痛いところを握られているからといっても、藤孝殿が、『やめたい』と申し出たときに、うれしそうな表情をみせてはいけません・・・。ともあれ、この二人の有能な補佐役が、その後の義昭公の滅亡を急速に速めました。そして、御存知の通り御二人は信長様の補佐役として活躍するにいたるのです。

―――この藤孝殿のお話はまだつづきます。なんせ、義昭公→信長様→秀吉様→家康様と大坂の陣まで話がありますので・・・。つづく!!


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[ 2006/04/26 23:29 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

細川藤考に学ぶ!退き時を知る術 其之一 

半兵衛にございます。

細川藤孝どのを御存知でしょうか?細川幽斎どののことです。彼は出処進退がとてもきれいです。この出処進退により、細川家を守ってまいりました。細川殿は、前将軍の弟で、諸国放浪中の足利義昭公にピタリとついて、一緒に放浪しておりました。そこに明智光秀どのが加わり、これが縁で、藤孝どのは息子・忠興の嫁に光秀どのの娘・玉を迎えたのでした。

藤孝どのが義昭公と放浪していたのは、逃げまわっていたのではなく、義昭公を将軍の座につけてくれる、いわゆるスポンサー大名を探していたのです。が、皆避けておりました。なぜなら前将軍を殺した三好・松永の一党が将軍を傀儡化し、権勢をふるっていたからです。そこで、藤孝どのと光秀どのが相談して選んだのが、織田信長さまです。天下を取りたいと望んでいた信長さまはこの話に乗ります。大名が天下を取るのには名目がいる。将軍を押し立てて武力的補佐をするのが一番効果的であると考えたからです。そして、この考えを実現させたのが藤孝どのと光秀どのの両名。この間における藤孝どのの補佐力は、信長さまとの外交交渉に集中して発揮されました。信長さまは藤孝どのの博識に驚きました。その文才もさることながら、知識・文才の陰にひそむかけひきの技術に舌を巻いたのです。同時に信長さまは光秀どのにも一驚しました。

信長さまも加わった強力な補佐力によって、義昭公は将軍になりました。すると藤孝どのは義昭公に言いました。

『私の役目は終わりました。』

『何をいっておるのだ?おまえと明智の補佐で私は将軍になれたのだ。恩をかえすはこれからだ。いつまでもそばにいてくれ。』

『いや、身を退かせて頂きます。おそれながら将軍さまの御苦労の時代を、あまりにも詳しく存じている者がおそばにおりますと何かと・・・』

日の当たる所に出たのだから、日陰の暮らしに精通している者は去ったほうがいい、という藤孝どのの判断でした。この言葉を聞くと、義昭公は『そうか、そういうものかな』といいましたが、その眼には、隠しようのない喜びの色が走ったのを、藤孝どのは見逃しませんでした・・・。

・・・出処進退のうまい人には、次の舞台が用意されているということを伝えたいと思っております。長いお話しなので、つづく!!


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福島正則に学ぶ!流浪の酒乞いに応じる器量 

半兵衛にございます。

さて市松くんを御存知でありましょうか?・・・おっと、失礼致した。市松くんというより、福島正則くんを御存知でしょうか?と聞いたほうがわかりやすかったですな・・・。

彼はたいそう酒が好きなのです・・・。漫画・センゴクに出てくる市松くんを見ていると、なぜ酒好きになってしまったのか・・・。と思うこともしばしば・・・。話はそれましたが、正則くんは関西の酒を好み、江戸にいる頃、いつも大坂から伏見や灘の酒を船で運ばせていました。この酒を運ぶ船が、あるとき暴風におそわれ、八丈島に漂着してしまったのです。四、五日は動けそうにないので、無為に日を送っていると、ひげだらけの一人の武将が寄ってきて、『いずれのご家中か?』と訪ねてきた。酒を運ぶ宰領をしていた福島家の家臣は、『福島正則の家臣である。そなたこそ何者か?』と応じると、その武士は、『宇喜多秀家である』と答えたのです。宇喜多秀家といえば、秀吉さまの五大老の一人で、関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、戦後、家康さまが八丈島に流した人です。

『こ・・・これは!』と、家臣は丁重な態度になったので、秀家は、『やめて下さい、いまは一介の流人です。ただ、ひとつお願いがあります。』といいました。その願いとは、茶碗に一杯の酒を恵んでくれ、というものでした。家臣は考え込みました。茶碗に一杯というが、実際は樽を一つ抜くことになります。一杯も一樽も同じことです。主人の正則が知ったらどれほど怒るだろう。まして関ヶ原の敗将に酒をやった、ときけば、幕府も神経をたてるにちがいない。家臣は思い悩んだあげく、暴風で一樽失ったことにしよう、と弁明することにきめ、秀家に一樽の酒と、積んでいた干魚をそえて渡しました。秀家は涙を浮かべて感謝しましたが、福島家のほかの家臣達は、事の重大さに恐怖し、酒を渡した家臣を、おれたちは知らないよ、という眼で見ていました。

酒が正則の邸内に運び込まれると、酒樽の数が足りないことに気づき、『責任者をつれてこい』と、秀家に酒を渡した家臣を呼び出した。そして、厳しい顔で、『海上でなにがあった?』と聞きました。その家臣は、『暴風に襲われました。』と答えると、『不足している一樽は、そのとき流出したのか?』と、正則は非難の色を露骨に出し聞きました。もはや、ごまかしようがないと悟った家臣は正直に、

『漂着した八丈島で、流人に与えました』

『流人に?きさま、わしの大事な酒を!流人といのは誰だ?』

『宇喜多秀家さまです』

『・・・宇喜多殿が!!』

正則はまじまじと家臣の顔を見た。家臣もじっと見返している。その眼はすでに死を決していた。正則は肩から力を抜き、

『きさま、正直だな』

『はい。しかし、はじめは、暴風で一樽失った、とご報告するつもりでした』

『そう都合よく一樽だけ失えるものか。きさまの正直には上に馬鹿がつく。どうせのことなら、なぜ全樽失わぬ?』

『は?』

『おい、よく、この正則の面目を立ててくれた。宇喜多殿も喜ばれよう。褒めてやる。』

感動して平伏する家臣に正則は、『申し渡しておく。つぎの船から、八丈島で失う樽は五樽にせよ!』と・・・


――ふむ、市松くんもなかなかの人物になりましたなぁ・・・。


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[ 2006/04/24 23:31 ] 戦国武将列伝 | TB(1) | CM(1)

三英傑に学ぶ!権威を利用して敵を計る 

半兵衛にございます。

権威を利用する――よい響きではないものの、軍略・兵法ではおおむね、権威を利用せぬ手はない、と説いております。さて利用できる権威とは・・・

一、自己組織を防衛するための防波堤として利用する権威

二、自己組織の拡大のための踏み台として利用する権威

の攻守二通りしか存在致しません。ただし、この『権威』が有効性をもつのは、相手の力量が弱く、それでいて利用価値をもっているものに限りますが・・・。この権威を利用し成功した武将として、武田信玄公、上杉謙信公、織田信長さまの例をお教え致しましょう。

まず信玄公から・・・。信玄公は元亀元年(1572年)に、天台宗の高位である権大僧正に任じられましたが、その前年、信長さまが比叡山を攻め延暦寺を焼き討ちしたとき、山門の正覚院僧正豪盛満蔵院権僧正亮信らを甲斐国に保護しております。もとより信玄公は西上計画を念頭に、叡山の利用価値を計算してのことでした。とくに辺境に位置した甲信地方では、宗教に対する信心も深く、国人、領民ともに信玄公の借りてきた『権威』に平伏したようです。

同様に、上杉謙信公は有名無実化した室町幕府の権威、『関東管領』に執着しつづけました。この『関東管領』は本来、幕府の出先機関として設けられ、初代には足利尊氏公の三男・基氏さまが任じられ、東日本に大きな指揮権をもっていたもの、歳月とともにその地位は下落し、管領は『関東公方』、『関東御所』と呼ばれるようになり、管領は執事として実務を総括してきた上杉家の呼称となったのです。この上杉家の末裔・憲政さまが謙信公を養子にする形で『関東管領』を譲っております。謙信公はこの肩書きを名目に関東に攻め込みましたが、それは一面、越後守護代出身の自らを権威づけるものでもありました。

そして最後は権威を利用して、一番の成功をおさめた信長さまです。信長さまは流浪の足利義昭さまを擁立して、上洛一番乗りを実現。正式に義昭さまを室町幕府第十五代将軍に据えると、その権威を利用してもろもろの施策をおこないました。例えば、義昭さまの名によって朝廷工作をおこない、越前の国主・朝倉義景には、『新将軍への来賀』のなかったことを口実に討伐を加えるなど、義昭さまを傀儡にして、それを陰から巧みに操縦し、自己勢力を畿内から丹波、播磨、若狭、丹後へと飛躍的に拡大いたしました。


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武田家滅亡に学ぶ!組織を崩壊させる派閥争い 

半兵衛にございます。

内部に混乱が起これば、当然の如く組織の力は低下し、指揮系統は乱れ、ついには組織の態をなさなくなるものです。では根本は何か、派閥です。軍学書では口を揃えております。つまり組織に派閥ができれば、それによって乱れが生じ、派閥間の闘争が組織そのものを自滅させるということです。悲しいことに武田家の滅亡が、これに相当しております。

信玄公の後継者となった勝頼どのは、もともと四男で相続権をもっておりませんでした。諏訪の地を任されて統治していた一部将にすぎませんでした。しかし、長子の太郎義信どのは信玄公と外交政策上の意見の対立から失脚、自害し、勝頼どのが後継者の地位につくこととなりました。(次男は盲人、三男は十一歳で夭折しているため)当然、勝頼どのの周辺には信濃国諏訪出身の者が多く集まります。

信玄公が健在なうちは、それでも表立ったことはありませんでしたが、この偉大な総帥者が死ぬと、甲斐国と信濃国の派閥争いが家中に起こり、両者の仲介役として長坂光堅跡部勝資が内務官僚として頭角をあらわしました。彼らこそ、以前お話した直江兼続どのの賄賂を受け取ったとされる人物であります。

彼らは甲信両国間を調停しながら、その実、自己の派閥をつくり、その力で、以前から煙たい存在である信玄公時代からの老臣、部将を次々に追い落とし、武田家の実権を握っておりました。こうなってしまっては、武田家の先は見えております。忠臣、勇将の多くは、光堅勝資らが主張した無謀としかいいようのない長篠の合戦に駆り出され、大半が戦死。勝頼どのが気がついたときには、すでに武田家の柱石はガタガタになっており、いかにつくろっても亡国はまぬがれない状態となってしったのです。

さらに敵にとっても、この派閥争いは利用できるものであり、派閥というものも考えものであるというわけです。


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[ 2006/04/22 22:35 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

織田信長に学ぶ!人心掌握術! 

半兵衛にございます。

以前、信長さまの厳罰ぶりをお話しましたが少し激しすぎたので、今日は別のお話しを・・・

信長さまが安土城に本拠を移した頃、安土城内の長屋の一軒から火が出ました。誰もいなかったので、きれいさっぱり燃えてしまいました。その報告をうけた信長さまは聞きました。

『家族も外出していたのか?』

報告した者は首をふり、『家族はおりません』

『なに?』

『尾張や岐阜にのこしたままです。この安土にはつれてきていません』

『・・・ほかにもそういう者がいるのか?』

『いるどころではなく、全員が家族をのこしたままです。独身にもどった気がして、夜な夜な城下町で遊んでおります。』

『そうか・・・』

うなずいた信長さまは考えました。やがて、供をつれて新しく建てたばかりの長屋に行きましたが、今夜も城下町に遊びに行ったらしく誰もいませんでした。信長さまは供の者にタイマツに火をつけさせると、いきなり長屋に放火して、つぎつぎと焼いてまわりました。当然、長屋は全焼。やがて、戻ってきた将士たちは、焼け落ちた長屋を見て、呆然としました。結局、信長さまが火をつけたことがわかり、将士たちは憤激いたしました。そして、抗議をしに信長さまのもとへ行くと信長さまは、『やかましい!』とどなりつけました。そして・・・

『たとえわしが火をつけても、家に誰か家族がいたならば、すぐに消せたはずだ。安土に移ってから、もうどれぐらいが経つ?わしは、毎日のように単身赴任はいかん、早く家族を呼び寄せろ、といったはずだ。それを貴様たちは、いいかげんに聞いているから、こういうことになる。さっそく家族を呼び寄せろ。そうしなければ、わしは何度でも長屋に火をつけるぞ!』

と言いました。団交にきたつもりの将士たちは、逆に信長さまに怒鳴られ首を縮めましたが、それ以上に信長さまが部下の家族にやさしい気持ちをもっていること知ったそうです。


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[ 2006/04/21 23:38 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

直江兼続に学ぶ!外交戦術 

半兵衛にございます。

外交戦術というものは、合戦よりも重大なものです。まさに外交戦こそが本当の戦いといえるでしょう。今日は、直江兼続どのの外交戦術を御紹介致しましょう。

ときは天正六年(1578年)三月、上杉謙信公が49歳で没すると、実子のいなかった謙信公の跡目をめぐって、越後国では二人の養子がお家騒動を引き起こしました。世にいう『御館の乱』です。

一方は長尾政景どの(謙信公の義兄)の子・景勝どの、もう一方は北条氏政どのの実弟で人質として上杉家へ引き取られたのを謙信公が養子にして改名させた景虎どの。当然のことなら北条家は景虎どのを押し、北条家と同盟関係にあった武田勝頼どのも、北条家とともに景虎どの支援に荷担致しました。

このままでは勝ち目が少ないと感じた景勝どのは、幼少からの側近で、いまは亡き謙信公に鍛えられた直江兼続どのの建策を採用いたしました。その建策内容はというと・・・

『家督を継いだ暁には、武田家への臣従を誓うから力をかしてほしい』と、勝頼どのに応援をもちかけるという破天荒な建策でした。本来なら一笑すべき策略ですが、この時期の勝頼どのは、織田・徳川連合軍に長篠で敗れ、こうむった汚名を返上したい一念に躍起となっておりました。『景勝が景虎を討てば、父・信玄でさえ実現できなかった越後国の併合が果たせる』と夢想した勝頼どのは、周囲の制止も聞かず、北条氏と絶交して景勝どのについたのです。もとより兼続どのは、勝頼どのの近習に賄賂を一人五千両ずつ贈るなどの手も、併せて打っております。

結果はご存知のとおり、一年に及ぶ戦いに勝利した景勝どのが、越後を平定。もともと景勝どのにも兼続どのにも、勝頼どのへの服従の気持ちなどなく、なりをひそめて領国経営にあたりながら武田家の滅亡を待ち、信州の切り取りをおこなうなどして、上杉家は新しい時代に生き残ったのです。

これは『商於六百里』の話にも似ておりますな・・・。詭弁、詐術ともとれる外交戦術ではあるものの、戦より大事なことなのです。


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[ 2006/04/20 22:31 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

松永久秀に学ぶ!戦国武将としての死に際の凄み 

半兵衛にございます。

常に生死の極限にあった戦国武将とって、死は当然のことであり、むしろ生きていることのほうが幸運のようなものという考えがありました。後世、戦国時代の諸書において武将の死に際の場面を描いた記述が多いのは、死に方というものが大きな関心事となっていたためです。

さて、戦国の世において『梟雄』と呼ばれた松永久秀どのは、信長さまに反旗を翻し、居城である大和信貴山城を攻められました。そのとき、『秘蔵の平蜘蛛の茶釜と久秀の首は信長に渡さぬ』と、釜もろとも自爆して果てたという話がございます。それとは別にもう一つの話がございます。

それは、切腹にさいして、久秀どのから脳のてっぺんの百会(ひゃくえ)に灸をすえるよう命じられいかぶる家臣に対して、『わしには中風の気がある。切腹の途中に発作をおこして不作法をしたら、これまでの松永弾正の武名に傷がつく。中風の発作を防ぐためよ。』といって灸をすえさせたのち、腹十文字にかき切って果てたという話しです。(備前老人物語より)

どちらの死に方が本当かは、私は存じませんが、戦国武将らしい死に方ともいうべきでしょう。死に方を生涯の大事と心得ていた戦国武将の一端を示したお話です。


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[ 2006/04/19 21:30 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

武田信繁に学ぶ!義の裏にある非情な戦国精神 其之二 

半兵衛にございます。

昨日の続きですが、天文十年(1541年)、信虎さまは『武田家は晴信(信玄公)ではなく、弟・信繁に継がせる』と発表致しました。途端、信玄公はクーデターを起こしました。重臣のほとんどが信玄公に味方されました。そして信繁どのも味方されました。信虎さまは息をのんだのです。『信繁、おまえ!!』絶句した信虎さまはやがて、

『あれほど可愛がってきたのに・・・。いままで与えた家宝の品々はどうした?』

『全部、いただくとすぐ、兄上にさしあげてあります』

『貴様という奴は!!父をだましたのかっ!』

『父上では、もうこの国は治まりません。また私でも治まりません。兄上でなければ家臣もついてこないのです。父上、お覚悟下さい。』

予想もしていなかった信繁どのの背信に、信虎さまはまさに飼犬に手をかまれた心境であったことでしょう・・・。信虎さまは甲斐を追放され、再び甲斐の地に足を踏み入れることはなかったといわれております。

謙信公が、『武田信玄の大罪』としてあげる『父追放』ですが、親不孝の度合からいえば、信玄公より信繁どののほうが罪深いでしょう。しかし、信繁どのからすれば父追放は、ベストではなくてもベターだと信じていたのでしょうな。武田家という組織を守り、家臣団と領民の生活を保障できるのは、父でも自分でもなく、兄の信玄公だと思っていたからこそ、私情に溺れず、非情であっても、そうしたのでしょう。

義ということは美しいですが、それに筋をとおすには非情に徹しなければならないときがあるということなのでしょう。


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[ 2006/04/18 23:13 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

武田信繁に学ぶ!義の裏にある非情な戦国精神 其之一 

半兵衛にございます。

武田信繁どのを御存知でしょう。武田家のNo.2であり、一貫して信玄公への忠義を貫いた武将です。

さて御存知のとおり、信玄公と信繁どのの父は武田信虎さまです。甲斐源氏の嫡流で上杉謙信公より名門です。甲斐一国で我慢できず、しきりに信濃を侵略致しました。粗暴な性格で、暴君の名が高かったお人です。その信虎さまは、子供の中で、信繁どのを溺愛なされました。信玄公は理屈を言いましたし、時には父を批判なさったことがあるそうで、信虎さまは、『子供のくせに、おまえはどうもうっとうしい』とよく言ったそうです。また、『おまえは嫌いだ』と露骨にそういうときもありました。いくら戦国時代といえど、父が子に対していう言葉ではありません。少年の信玄公が、心にどういう傷を負ったか・・・。だれにでもよくわかると思います。『信繁は素直だ。わしのいうこともよく聞く。可愛い』と信虎さまは信玄公にそういい、気持ちを態度で示しました。食い物でも玩具でも、いい物は全部信繁どのにあげておりました。

成人して戦場に行っても、信玄公を死地にばかり部隊配置し、切りぬけて戻ってきても褒めませんでした。『なぜ生きて戻ってきた?』というような表情を見せましたが、信玄公は耐えておりました。このような姿を、武田家の重臣がじっと見つめ、そして誰よりも信繁どのが見つめておりました。通常、このような状況におかれれば、得意になって兄をあなどるものですが、信繁どのはまったくそんな色を示しませんでした。信繁どのは、子供のときから、父から何か物をもらうと、そっと信玄公に届けたそうです。

『これは武田家の家宝です。兄上が持っていて下さい』

『なぜ、おれに届ける?』

『兄上は武田家の相続人だからです』

『そんなことはまだ決まっていない。それに父上はおまえに家を継がせる気だ』

『私は継ぎません』

『なぜだ?』

『能力がありません。それに、義を重んじます。』

信玄家法の下巻のその一条一条に、すべて中国の儒家のことばが引用されておりますが、信繁どのは儒学に造詣が深く、『兄をこえて弟が家を継ぐ』という発想がなかったのでしょう。この積み重ねはずっと続いたそうです。父・信虎さまの意思がはっきりしているのですから、信繁どのがその気になれば、武田家は彼のものになるでしょう。そして家臣の中にも、従う者もいるはず・・・。しかし信繁どのはそうではなく、一貫して信玄公につくしました。このため、ただ単に身内だからということではなく、信玄公は信繁どのを信頼致しました。

今日のお話しは美しき義の話しでしたが、明日は義の裏にある非情なお話しを・・・。


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[ 2006/04/17 23:36 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

徳川家康に学ぶ!詐術を美徳に変える術 其之三 

半兵衛にございます。

昨日のつづきで、徳川家康さまの大坂の陣における詐術…

征夷大将軍になった家康さまは、まもなくその職を嫡子・秀忠さまにお譲り致しました。そして、自身は駿府にて目を光らせておりました。こうなると諸大名は、江戸と駿府の両方にご機嫌をうかがわなければならなくなりました。はじめのうち、大名は武具で身をかためた多人数の軍勢を率いていましたが、やがて武装しないで連れて歩くのが例になり、供は平服のまま旅をしました。

そんなときに起こったのが、大坂の陣です。駿府の家康さまのところには、何人かの大名が、ご機嫌うかがいに訪ねておりましたが、にわかの合戦でしたので、そこからそのまま家康さまに従わなければなりません。自分の領国にいったん戻って、軍装を整える暇はありません。自身はもちろん、部下も全員平服です。武器や武具も買わなければなりません。当然、馬も買わなければなりませんね。

が、何を買うにしても先立つ物はお金です。それも莫大な…。旅先ですので、どの大名もそんなにたくさんのお金を持ち歩いておりませんでしたので、みな困り果ててしまいました。そこへ家康さまが入ってきて、『どうなされた?』と聞きました。大名達は正直に、『ここから直ちに合戦にお供するつもりだが、にわかのことなので、武備を整える費用を持ってまいりませんでした。それで弱っております…』といいました。家康さまはニコリと笑い、

『ここから直ちに、この家康に味方をしてくれるとは、おのおのの忠誠心、本当に嬉しく存ずる。おのおのがお金を持ち歩かぬのは当然のことであるが、それにしてもお困りであろう。それでは、わしが貸して進ぜようか?』

『えっ』と大名たちは目を輝かせました。『本当でございますか?』『本当だ。合戦が終わったらお返しくだされ。しかし…』と家康さまは目を細め、『お貸しした期間の利子はいただくよ』といった。『それはもう、もちろんです』と急場から救われる思いで、大名たちは利子のことなんか気にもしませんでした。

・・・これもおかしな話しですな。そもそも、豊臣秀頼さまとの大坂の陣は、家康さま自身の戦いです。本来なら、大名たちにお金をやって『この金で、急いで武備をととのえ、わしの味方になってくれ』と頼むのが常識でしょう。しかし、家康さまはそうはしませんでした。自分からは声もかけずに、大名たちが自発的に家康さまの味方になるよう仕向けたのです。したがってその費用は大名たちが自前で負担しなければなりません。これも詐術です。が、詐術が詐術としてではなく、すっと通用してしまうのは、家康さまの器量というべきでしょう。石垣のお話しも同じですが、詐術に感じつつも、そうせざるを得ない不思議な魔力が家康さまにはあるのです。

さて、家康さまが貯めこんだお金の使途についてですが、家康さまはこう遺言致しました。

『遺した金は、必ず災害の救済費に使え』と。

ふりそで火事の異名がある明暦の大火まで、家康さまの遺産で大勢の被害者が救済されたそうです。ケチはケチでも家康さまはただのケチではなかったというわけです。


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[ 2006/04/16 23:23 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

徳川家康に学ぶ!詐術を美徳に変える術 其之二 

半兵衛にございます。

家康さまがチリ紙一枚大事にしたお話は昨日致しましたが、今日は本題である『 詐術 』に関するお話しを…。

江戸城を拡大するにあたって、家康さまは全大名に工事の手伝いを命じました。工事の手伝いというのは、資材・人夫を自己調達し、割り当てられた箇所を自費で完成させる、ということでした。これは大名達にとっては大変な出費になります。細かい部分を割り当てられた者はともかく、石垣を割り当てられた者は大変なものでした。石を運んでこなければなりません…。伊豆の石がいいというので、石垣造成を命じられた大名は、先を争って伊豆の石を買い漁りました。ところが、ある大名が買いに行くと、地元では、『もう売れました』と言われました。誰かが先に買い占めてしまったのです。『少し分けてもらう交渉をしたい。誰が買い占めたのか、教えてくれ』と言いましたが、地元の人間はニヤニヤ笑っているだけで、教えてくれませんでした。その大名は困り果てて江戸に戻ってしまいました。頭を抱えているその大名に、家康さまが寄ってきて、『どうなされた?』と聞きました。その大名は、『誰かが伊豆の石を買い占めてしまったので、石垣の造成ができません。いま、ほかの石の産地を当たっています。』と答えると、家康さまは、『ほう、それはご災難だな』とニコリと笑いました。そしてこう言いました。

『わしは、石を少し持っているが、分けて進ぜようか?』

『えっ!』と大名はびっくりし、『本当ですか?』と聞くと、『本当だ。しかし、タダというわけにはいかんよ。相応の代金はいただく』というと、大名は目を輝かせて、『もちろんです!いくら高くてもかまいません。どうかお譲りください』

・・・考えてもみて下さい。江戸城は家康さまのためのお城です。そのお城を造るのに、大名達は自前で奉仕しているのです。資材が足りないからといって、その資材を家康さまが売るという、一種の詐術であります。そして、この話しには落ちがあり、伊豆の石を事前に買い占めていたのは、実は家康さまだということです。家康さまは大名に石を売って大儲けをしました。

さらに大坂の陣において軍資金に困る大名達に、利子をつけてお金を貸したお話しがあるのですが…。つづく!


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[ 2006/04/15 19:35 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

徳川家康に学ぶ!詐術を美徳に変える術 其之一 

半兵衛にございます。

徳川家康さまのケチぶりは周知の通り有名です。健康管理を兼ねた、家康さまの衣食生活は、かなり行き届いたものでありましたし、物を大切にする点では、誰よりも抜きんでておりました。チリ紙一枚ですら無駄にしていません。

あるとき、家康さまは大勢の大名を連れて京都の寺へ参りました。行事がすんで便所に行ったとき、家康さまはチリ紙を一枚、腰にはさんで入りました。ところが、出てきて手を洗い、拭こうとすると、風が吹いてそのチリ紙が飛んでしまいました。そして、そのチリ紙は庭へと舞いました。すると家康さまは、足袋のまま庭に飛び降り、走って紙を追ったのです。そして、宙に飛び上がって、ようやくチリ紙をつかまえたのでした。

縁の上にいた大名達はクスクス笑い、中には、『徳川殿はケチだ』とささやく者もおりました。すると、家康さまはジロリとその大名を見てこう言いました。『何がケチだ!わしはこうして天下を取ったのだ!』

この話の内容はとてもおもしろいものの、『わしはこうして天下を取ったのだ』という言葉は、家康さまだからこそ言えるものだと思いますな。

詐術とケチぶりですが、詐術に関しては話が長くなりそうなので、つづく…。


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[ 2006/04/14 23:23 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

武田信玄も騙された織田信長の外交術 

半兵衛にございます。

戦国時代というものは、ただ単に敵国を攻めればいいというわけではありません。外交戦術というものがいかに大事であるか…。今日は、織田信長さまの外交術をお教え致しましょう。かの漫画センゴク8巻にて、織田家と武田家が同盟を結んでいるのがわかるシーンがございました。その織田家と武田家の同盟の成り立ちがこれから御紹介するお話です。

信玄公は上洛を心ひそかに計画していましたが、領土拡張にともない、西端が当時の信長さまの本拠地・美濃と接するようになったのです。これに慌てたのが信長さまです。客観的に双方の軍事力を分析して、『いまだ信玄と、正面からぶつかるのはまずい!』と結論を出した矢先でした…。この信長さまの信玄公に対する理解は、戦慄といっても過言ではありません。

経済力では隔絶して優位に立ち、武器の多寡でも群を抜いていたにもかかわらず、信長さまは徹頭徹尾、信玄公を恐れられました。センゴク8巻においても、『信玄坊主が敵だったなら、我ら生きてなぞおらぬわ』と言われておりました。なぜなら、信長さまの主力・尾張兵と信玄公の主力・甲斐兵の資質に格段の差があったからです。もともと尾張兵は伊勢湾貿易の恩沢もあって、恵まれた環境に浸っていたため、近隣諸国からは弱兵の代名詞のように呼ばれておりました。その尾張兵が美濃国を併合できたのは、ひとえに信長さまの独創的な指導(兵農分離)の賜物であり、それは信長さまが誰よりも一番よく承知しておりました…。

そして天下最強を謳われた甲州軍団に、神業とも称せられる戦上手の信玄公の指揮が加わり、信玄公の命令一下、武田の将士たちは死を恐れず嬉嬉として戦場に赴く・・・。『できうるなら、いま少し、軍備を増強してから迎え撃ちたい』信長さまは猛獣の大群の如き甲州軍団の、美濃・尾張侵攻を、是が非でも遅らせねばならなかったのです。そのため信長さまは、あらゆる屈辱的な外交にも甘んじ、しばしば進物なども信玄公のもとに贈っています。

当然のことながら、信玄公も信長さまの態度に不審を抱いており、また、真田幸隆どのや高坂昌信どのら重臣達も、『織田殿は公私の別なくお屋形様(信玄公)を尊敬されていると聞いておりますが、決して油断はなりませんぞ』と進言しておりました。無論、信玄公も端から信長さまの称賛、追従などは信じておりませんでした。

あるとき、信玄公は信長さまの本心を確かめてやろうと、信長さまの進物を調査させたことがありました。中味ではなく梱包を剥いで見せよというのです。信玄公にいわせれば、中味はともかく、外形の造作で中味のほども知れるというもの。信長さまからの、進物の外箱は漆塗りの高価なものでした。信玄公は外箱の漆を削らせたのです。高価な漆物(ぬりもの)は幾重にも堆朱(ついしゅ)されているので、手を抜いていれば、その堆朱の層は少なく薄いはず。

『どうせ、1,2層であろう』

と信玄公や重臣達も思っていましたが、予想に反して信長さまの進物は、中味もさることながら、外箱の堆朱は十数層にも及んだ極上品でした。これを見た信玄公は信長さまの本性を『誠実な男』と値踏みし、警戒心を解いてしまいました。そればかりか、信長さまに乞われて四男・勝頼どのに、信長さまの養女を迎えることを承諾してしまったのです。信長さまはこうして時間を稼ぎ、その間に対武田戦略を練り、武器を調達しては、来るべき対決の日に備えたのでありました。

最終的には信玄公の死後、長篠の合戦における三千挺の鉄砲の前に、武田家は数多の重臣を失い、壊滅的な打撃をうけてしまうのでした…。外交戦術というより、勝利の確信を得られるまでは無理に戦わず、時間を稼いで敵を封じ込めるという、一つの兵法ですな。


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[ 2006/04/13 23:36 ] 戦国武将列伝 | TB(1) | CM(0)

上杉謙信がもっとも警戒した漢(おとこ) 

半兵衛にございます。

今日は、かの上杉謙信に『あやつがいる限り、武田信玄は倒せない』といわしめた漢(おとこ)がいました…。『武田二十四神将』の一人で『攻め弾正』の異名をもつ、真田弾正忠幸隆どのです。

幸隆どのは御存知、真田左衛門佐信繁(幸村)どのの祖父にあたる人物です。その幸隆どのが上杉側の実態を探るべく、あるとき、山伏に変装し単身、越後に潜入したときのお話し…

国境を越えると一人の老婆に出会い、『春日山城に行く道を教えて頂きたい』と尋ねると老婆は幸隆どのをじっと見つめ、『昨日も、そういうことをきいて、たちまち斬り殺された山伏殿がいる。ここのところ、しきりに武田方の間者(スパイ)が入り込んでくるのでな…』といったのです。幸隆どのは、笑って、『わたしはそのような者ではありません。春日山の毘沙門さまに、どうしてもお参りしたいのですよ』といいました。すると一人の農夫が現れ、その農夫の姿を見た老婆は、悲鳴に近い叫びを手でおさえて、その場から立ち去ったのでした。そこでその農夫は、『毘沙門さまには、わたしが御案内さしあげてもよろしいが…、ところでお供えものを持っておりますか?』とさりげなく聞いた。が、これは本物の山伏かニセモノの山伏かをテストする質問でした。供え物といっても酒や花ではなく、多額の金銀を意味していました。しかし、事前調査で幸隆どのはそのことを知っていましたので、『もちろん』と答え、そして用意してきた金銀を見せました。農夫はうなずき、案内しはじめて毘沙門堂に連れていきました。そして、『ついでに上杉謙信さまの本拠である春日山のお城をそっと見せてさしあげようか?』といいました。もちろん幸隆どのはこれに承諾しついて行くと、小さな丘の上の城へ案内されたのです。そこは城というよりは砦といった感じがし、『謙信公の本拠の城にしては小さすぎる』という疑念を抱きつつも帰途についたのでした。

数日後、『真田幸隆殿』と名指しの書状が荷物といっしょに届いたのです。差出人は『上杉謙信』とあり、ひらくと『先日はわざわざご来国下さり、つぶさに国内をご視察賜ってまことにありがたい。多少、ご参考になりましたか?なお、毘沙門天への供え物は、お志だけを受けることにしてお返しする。』と書いてありました。幸隆どのは『あの農夫が謙信その人だったのか!?』と目を見張り、直感でニセの春日山城をみせられたのを悟りました。

幸隆どのは謙信公の書状を元通りに封をし、ひらかなかった形に直すと、こんどは自分で書状をしたためたのでした。宛名は謙信公の重臣で、差出人は真田家の重臣にしました。つまり上杉と真田の重臣同士が、すでに通謀しているという設定にしたのでした。二通の手紙を持たせて、死刑が確定していた罪人を上杉領に放逐しましたが、その罪人はたちまち捕まり、手紙が謙信公のところに届けられました。読んだ謙信公は一瞬、『わしの重臣が真田の重臣と!?』と顔色を変え、『殺してやる』と思ったそうです。

しかし、同時に、『ちょっと待てよ』とも思ったそうです。それは幸隆どのの頭のよさを知っているからです。あのとき、ニセの毘沙門堂とニセの春日山城を見せてやったが、あるいは気づいていたのかもしれない。そう思うと、『これは、その報復で、わしをひっかけ、罪のない重臣を殺させようとする謀略ではないか?』という気がしてきたのです。幸隆どのが名指しした重臣は、忠義一途の男で、そんな気配は微塵もなかったからです。そして、謙信公は自分が差し出した書状をもう一度よく点検して、謙信公はニヤリと笑いました。なぜなら、うまくつくろってはいるものの、一度ひらかれた形跡があったからです。この確信をえるまでに、謙信公は七日かかりました。

そこで謙信公は幸隆どのに書状を送りました。内容は、『弓矢の道では、おぬしにおくれをとるとは思わないが、頭のよさでは七日のおくれをとった…』と、受け取った幸隆どのも謙信公に、『先日はお世話になりました。ニセの春日山城に危うくだまされるところでした…』と書状を送りました。

謙信公は、『真田のいるかぎり、信玄は倒せない。真田攻撃に全力をあげるぞ』と重臣達にいいましたが、幸隆どのも真田家の宝刀ともよべるゲリラ戦でこれに応え、みごと最後まで戦い抜いたのでした。

謀略戦ではあるものの、どこかさっぱりとしている謀略戦ですな…。


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[ 2006/04/12 22:51 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

川中島の戦いに学ぶ、正と奇 

半兵衛にございます。

兵法には『正』と『奇』がございます。『正』とは、手堅い戦い方のことです。少々の敵の攻撃ではびくともしませんが、かといって敵にも致命傷を与えられるだけの切れ味もありません。効果も薄いが、リスクも少ないといったところでしょう。一方『奇』とは、それに対してリスクの大きい戦い方です。成功すれば敵に致命傷を負わせられますが、もし敵に出方を読まれたならば自軍が潰滅しかねません。

しかし、がっぷり四つを組む場合は、『正』でなければなりません。それは敵の出方がわからないからです。もしここでリスクの高い作戦を採ってしまえば、自滅しかねません。わかりやすい話は、『小牧・長久手の戦い』ではないでしょうか。それは次回にでも・・・。

がっぷり組んでいるだけでは勝利は得られませんので、敵の出方もおよそ読めてきたし、敵がほころびを見せた―――そんなチャンスを果敢に攻めなければなりません。そこで効果を発揮するのが、『奇』となります。敵のパターンの裏をかいたり、隙をうまくついて一挙に崩してしまうのです。しかし、『奇』は敵に知られた途端、マイナスにも反転してしまう厄介な性質をもっております。

例えば、武田信玄公と上杉謙信公の『第四次 川中島の戦い』なんかは、わかりやすいと思います。この戦いで信玄公は有名な『啄木鳥の戦法』を採ったわけですが、『啄木鳥の戦法』とは何か?―――啄木鳥の餌の取りかたからこの戦法が生まれました。内容は自軍を二手に分けて、別働隊に敵の背後を奇襲させる。敵が驚きパニックになって前に出てきたところを、待ち構える信玄公率いる本隊が叩くというものです。

この戦い方、成功すれば大勝利も可能ですが、自軍を二手にわけるため、敵に察知されれば各個撃破されかねないという、リスクの大きな『奇』の作戦でした。そしてこの策、妻女山に布陣していた謙信軍に察知されてしまいました。謙信公は夜のうちにこっそり陣を引き払い、信玄公の本隊の前に全軍を移動させました。妻女山にはかがり火を焚いて、軍勢がまだ布陣しているかのように擬装も施しておりました。信玄公の奇襲を読んだ謙信公が、さらにその裏をかく『奇』を仕掛けたというわけです。

朝、日が昇って驚いたのは信玄公でした。眼前に謙信軍がいるのですから…。しかも、信玄公は軍を二手に分かれているので、勢力劣勢。謙信公はここぞとばかりに猛攻を加え、謙信公みずから信玄公の陣中に斬り込んでいったのです。

周知のとおり、信玄公は弟・信繁どのを失い、負けに近い引き分けに持ち込むのがやっとだったともいわれておりますな。『奇』とは、敵に知られてしまった時点で『奇』ではなくなり、単なる負ける確率の高い無謀な戦法に成り下がる可能性があるということを、この川中島の戦いより学ぶことができますな。

およそ戦う者は、正をもって合し、奇をもって勝つ――孫子 兵勢 編

意味は、実をもって虚(手薄な敵を撃つこと)に勝つのが、戦争の常道(正)である。そしてこの常道は、個々の場面に応じた縦横の戦術(奇)となってあらわれなければならない―――


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囲魏救趙に学ぶ、敵を分散させて討つ兵法 

半兵衛にございます。

昨日、集中している敵には分散させて討つほうがいいことをお教えいたしました。今日は『三十六計 第一組 勝戦の計 第二計 囲魏救趙』をお教えいたしましょう。というより、昨日信玄公の囲魏救趙を書いたので、内容はほとんど同じです。信玄公の場合は信濃方面へ軍を向けただけですが…。

さて『囲魏救趙』とは、魏という国の将軍・ホウケンが趙の都・カンタンを攻撃したことに話ははじまります。魏の猛攻に、趙は斉という大国に救援を依頼しました。そのときに救援軍の軍師を務めたのが、孫賓(そんぴん)です。

救援軍の総司令官・田忌(でんき)は、さっそく攻防の渦中であるカンタンに向かおうとしましたが、軍師の孫賓はそれに反対しました。

『もつれた糸を解きほぐすときは、むやみに引っ張ったりしないものです。喧嘩の仲裁に入るとしても、やみくもに殴り合いに加わったのでは、何の助けにもなりません。相手の虚につけ込むことで、形勢を有利にすることができるのです。いま、魏は趙に向けて精鋭部隊をすべて投入し、国もとには老弱な兵しか残っていません。この際、手薄になっている魏の都・タイリョウを一挙に突くのです。そうすれば魏は、カンタンの包囲を解いて、自国に引き返さざるを得なくなります。包囲を解かせ、魏軍を疲弊させる―――まさに、一石二鳥の妙策です。』

救援軍総司令官・田忌は、この策の通りに軍を進めました。魏はカンタンを攻略するために、主力軍のすべてをそこに投入し、自国の都・タイリョウには老弱な兵しか残していませんでした。都・タイリョウに斉の救援軍が向かったという報せに、魏軍は青くなってとって返しますが、田忌の救援軍は、それを途中のケイリョウという地で迎え撃って大勝利を収めたのでした。

古えのいわゆる善く兵を用いる者は、よく敵人をして前後あい及ばず、衆寡(しゅうか)あい恃(たの)まず、貴賎(きせん)あい救わず、上下あい扶(たす)けず、卒離れて集まらず、兵合して斉(ひと)しからざらしむ。利に合して動き、利に合せずして止む。あえて問う、敵衆整いてまさに来たらんとす、これを待つこといかん。曰く、まずその愛するところを奪え、すなわち聴かん、と。兵の情は速やかなるを主とす。人の及ばざるに乗じ、盧(はか)らざるの道により、その戒めざるところを攻むるなり――孫子 九地 編

要約すれば、敵を攪乱することがうまいのが戦上手である。敵軍にくさびを打ち込み、烏合の衆にしてしまうからです。その後、有利とみれば戦い、不利とみれば退く。では、敵が万全の態勢をととのえて向かってきたらどうするのか?その場合、機先を制して敵の急所をおさえる。こうすれば、あとはこちらの意のままです。なによりもまず速戦です。隙に乗じ、思いもよらぬ道を通って、敵の意表をつくことが大事である。

一見卑怯だと感じますが、勝率、味方の損害、それらをかんがみればとても重要なことなのです。

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信玄堤に学ぶ、敵を分散させて討つ兵法 

半兵衛にございます。

信長さまと秀吉さまの厳罰にはもっとなまなましいお話しもありますが、エグいお話しになってしまいますので、今日は策略的なお話しを・・・

さて、集中している敵に対して、無為無策に当たって砕けろ式な考えで攻撃するなど、無謀というより愚の骨頂です。この場合、気を散らせて討つのです。これは相手方の兵力を分散させたのち、攻撃に転ずる方策を立てるほうが戦果は大きいし、勝率も高くなります。しかも味方の損害も少なくすみます。一見、卑怯な感じもしますが、そのような甘いことを言っている方は滅ぼされてしまいますぞ!

この兵法原則は、武田信玄公の設けた『信玄堤』にも利用されております。信玄堤とは、甲府盆地の西域、釜無川と御勅使川(みだいがわ)の合流地点に設けられた堤防のことで、この場所はひとたび増水し決壊すると、瞬時に甲府平原をひとのみにしてしまう領内第一の水難場でした。そこで信玄公が国主に就任すると、すぐさま治水工事に着手、19年の歳月を費やしてここに堤防を完成させたのです。

堤は流れを無視して、不自然に片側だけを補強しても意味をなさない。水勢は必ず、反対側に殺到集中する。したがって、水の勢いに逆らわず、水路を二分してその勢いを殺ぎ、半減した水勢をさらには16石(16個の大きな岩石)によって阻むというのが、信玄公の用いた築堤術の基本でした。こうすることによって、川には逆流現象が起こり、渦巻逆流は互いに激突し、牽制しあい、水勢はより緩和され、奔流もついに和らげられた流れとなります。逆巻く激流を分散して、水の力を弱める―――。それが『信玄堤』なのです。

孫子兵法には、

それ兵の形は水に象る。水の形は高きを避け低きにおもむく。兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地によって流を制す。兵は敵によって勝を制す。故に兵に常勢なく、水に常形なし、能く敵によって変化して勝を取る者、之を神と謂う。

とあります。さらに信玄公は宿敵・上杉謙信公に対しても、よく『気を散らせて討つ』兵法を用いました。

それは上杉謙信公が関八州の国人たちに、北条氏討伐の『義兵』を呼びかけ、電光石火、進軍開始後わずか2ヶ月で北条氏の本拠地・小田原城に迫ったのときのこと。この頃の小田原城主・北条氏康公は同盟の約定に基づき、信玄公に援軍を求めました。戦国最強を謳われた信玄公とはいえ、連戦連勝で勢いに乗る上杉軍に、真っ向から戦いを挑んで勝てる見込みはありません。そこで信玄公は小田原に軍を向けず、信濃国の佐久に向け碓氷峠の方向へ出陣させました。つまり、武田軍の位置は、奥信濃に進めば越後本国へ、峠を越えれば進軍中の上杉軍の背後にまわるという場所でした。この報せに謙信公も軍を返すことになってしまったのです。

これに似たお話が斉の軍師・孫賓(そんぴん)の『囲魏救趙』の故事ですが、少々長くなりましたので、明日にでも・・・


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[ 2006/04/09 23:08 ] 武経七書 | TB(2) | CM(0)

薄濃(はくだみ)ドクロ 

半兵衛にございます。

首実検とは、『功名が辻』でも度々見られた、大将や居並ぶ重臣たちの前で『○○が討ち取りし□□の首』ということで、首を見せる儀式のことですが、首実検後の首はどうしてるの?とか、首実検のしきたりなど、合戦という華々しいことに目を向けがちですが今日はなまなましいお話しを…

戦国時代というのは身分的秩序が重んじられていた武家社会でしたので、敵の首にも身分によって扱い方や作法にも相違がございました。たとえば、首に結ぶ首札の材質。大将首には桑の木、その他の首には椿か杉と定められ、大きさも大将のものは長さ5寸に幅2寸、諸士のものは4寸に1寸8分、雑兵のものは3寸6分に1寸余と、それぞれ規格が異なっておりました。また、首をのせるものも、大将首は檜でつくられた1尺2寸四方に4寸2分の高さの足がつけられた首台にすえ、諸士の首は6寸四方、厚さ6分で高さ2寸の首板にすえられておりました。また首実検そのものも、諸士以上の首はいかに数が多くとも一つ一つすべての首に大将による首実検の礼がとられましたが、雑兵の首は幕外に西向きにしてひとまとめに並べられ、その前を大将が馬で北から南へ三度往復して検分するという簡略なものでした。

こうして首実検をおえた首はどうするかというと・・・。獄門にかけて梟首(さらしくび)にされたり、敵方に送り返されるのです。もっとも、獄門や梟首などは謀反者や悪逆非道をおこなったものに対するみせしめの場合がほとんどで、戦場の勇者の首のほとんどは敵方に送り届けられるのがならわしでした。その場合でも、首を白絹で包み、高さ1尺2、3寸、直径8、9寸の首桶におさめて送りました。白絹は2幅、長さ2尺4寸と定められておりましたが、錦を着た大将ならその錦衣で、赤い直垂を着ていればそれを引き裂いて用いることもございました。

要するに首実検は、味方の戦果を確認し、士気をますます高めるとともに、武運つたなくして散った敵の戦死者に対する最大限の敬意がこめられた儀礼なのです。ですから、総じて戦国武将の敵の戦死者に対する扱い方は丁重であったといえます。

冷酷のように思われている信長さまでさえ、桶狭間戦勝後の首実検のさい、今川義元所用の鞭をもったまま捕虜となっていた義元の同朋に、織田方の討ち取った今川勢の首を見せて、一々それに名札をつけさせました。そうしてかの同朋に太刀・脇差をあたえて義元の首を託し、10人の僧侶を添えて、今川氏の武将・岡部元信の鳴海城に送りとどけております。

ただ信長さまは、天正元年8月に滅ぼした近江の浅井久政・長政父子の首と、越前の朝倉義景の首とを、薄濃(はくだみ)にして翌年の正月までとっておき、岐阜城へ年始の挨拶にきた諸大名・重臣らの祝宴の肴(さかな)にみせるという狂気のさたとも思える行動をしております。薄濃とは、漆塗りにしたものに金粉をほどこしたものです。しかしながら、信長さまを擁護するわけではございませんが、それらの首は『公卿(くぎょう)』に据え置かれていたと聞いておりますので(信長公記より)、信長さまなりに首は丁重に扱っていたことが察せられます。公卿とは白木の折敷の下に台をつけた衝重(ついがさね)であり、主として神供をのせるのに用いる儀式の具であります。

多くの戦死者を出した戦国時代、首実検が儀礼的かつ儀式的に行われていたことが察せられる、ちょっとなまなましいお話しですが、大河ドラマでは見られない光景ですので、お勉強になりましたかな???

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[ 2006/04/08 19:22 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(0)

秀吉さまの厳罰ぶり 

半兵衛にございます。

昨日、信長さま・秀吉さまは厳罰主義・威嚇主義であったと記しましたが、今日は秀吉さまの例を…

わたくしはとうに死んでしまった天正18年7月、小田原の陣中で出した条目には、乱暴狼藉をはたらき、一銭でも盗んだものは斬罪とし、陣所で火の不始末をしたものはからめ取る、という厳しい姿勢を見せております。しかし、秀吉さまの軍記は、型破りな性格によるものか、滑稽じみた面がございます。

例えば、小田原城攻めのような長期に及ぶ戦場では、諸大名や兵士たちの妻妾の同伴を許し、自らも愛妾を陣中に呼び寄せております。この根本には、戦地における兵士の乱暴を抑制する手段として、このようなことを実行したのです。

信長さま、秀吉さまの軍紀は、法と同様に文字で多くを語ることはせず、苛酷な厳罰をもって、無言の威力を示していたといえるでしょう。

また『武将感状記』には、

―――関東を歩いていたある僧が、小田原の城下に三十ヵ条にも及ぶ氏政の禁制が掲げてあるのを見て、北条家も末になった、となげいたというのだ。そのわけは、国主に威がそなわり、士民が心服しているときは、法度の箇条が少なくてすむが、国主の威が衰えると、士民のなかに国主にそむくものが多くなるので、法度の箇条はふえ、政令も煩瑣になるというのである―――

この一文に戦国期における人々の法令に対する考え方がよく表されていますな・・・。ですから信長さま、秀吉さまの法や軍紀の記録は非常に少ないのです。しかし、大軍を統帥するには、なんらかの法や軍紀は必要なわけですから、そこで戦慄を覚えるほどの厳罰という方法がとられたわけですな。

明日は『功名が辻』でのシーン、『ドクロの盃』について・・・


    
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[ 2006/04/07 19:32 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(0)

信長さまの軍隊指揮の凄み 

半兵衛にございます。

室町幕府の権力基盤の弱さに比べ、信長さまや秀吉さま、家康さまの軍事力は、いずれも当時としては最大最強のものでした。

信長さまの兵力は東海から畿内周辺にかけて約12ヵ国、10万余を誇り、常に2,3万の大軍を動かしておりました。また、秀吉さまは小田原征伐には自ら西日本の兵20万の大軍を指揮し、家康さまも関ヶ原の戦いや大坂の陣では10万を超える軍勢を動員いたしておりました。

このような大軍を統率することは容易ではありません。味方の劣勢により、臆病風に吹かれた部下たちがかってに持ち場を離脱するようなことになれば、それこそ潰滅の危機に立たされますし、抜け駆けの功名や勝ちに乗じた兵士の乱暴狼藉も、全軍の統率を欠くだけでなく、世上の評判にもかかわります。

信長さま・秀吉さまに共通している大軍統帥の基本姿勢といえば、まさに戦慄を覚えるほどの威嚇主義であったといえるでしょう。

威嚇主義が窺える信長さまの例とすれば、永禄11年の上洛の時でしょうな・・・。信長さまは兵士の乱暴狼藉を禁止し、これを厳重に監視させました。また、京周辺の公家衆や社寺に対しては禁制を掲げ、領内や境内における兵士の乱暴を厳禁させております。

この信長さまの京の治安維持に対する峻厳ぶりを目のあたりにみた耶蘇会の宣教師は、故国ポルトガル国王にあて、

―――彼(信長さま)はただちに総司令官柴田殿に命じて触(ふれ)を都に出し、軍途の兵士市内に入り、または乱暴をなすものあらばこれを殺すべしと命ぜしめ、文字どおりただちにこれを実行し、暴力をもって侵入せんとせし八人は総司令官ただちにこれを斬殺せり―――『耶蘇会士日本通信』

と報告しており、同じく宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、

―――上洛の翌年の永禄12年、信長さまは足利義昭公の居城として京都二条に大城郭の建設に着工し、自ら普請の監督にあたったが、およそ2万人の職工や兵士を使役させるために、信長さまは虎の皮を身にまとい、白刃を手にして中央に立つのを常とした。そしてあるとき、人夫のひとりが、そこを通りかかった婦人をからかったのを、はるかかなたで目撃した信長さまは、早足で歩み寄ると、ものもいわずにその人夫の首を刎ねてしまった―――

漫画・センゴク2巻では上洛の折の厳罰行為についても書かれております。信長さまの軍隊統制法は威嚇主義・厳罰主義であったことが窺い知れる事件ですな。また秀吉さまも厳罰主義者であったこと・・・。これは次回にでも・・・。

中国の書・韓非子にも、

―――明君が賞を行えば、ちょうどいい雨のように優しく、すべての民はその恩恵にありつける。罰を行えば、雷のように恐ろしく、神や聖人でさえも鎮めることはできない。だから、明君は半端な気持ちで賞を与えないし、罰を緩くすることはない。もし、賞がいいかげんであれば、功臣も怠惰になり、罰をそのまま許しておけば、姦臣はさらに悪事を働くようになる。功績があるならば、疎遠で、卑しい身分といえ必ず賞し、まさに過失があるならば、身近で愛する者でも必ず罰を加える。疎遠で卑しい身分でも必ず賞を与え、身近で愛する者でも必ず罰を与えれば、すなわち、疎遠で卑しい身分の者でも怠けず、身近で愛する者も奢ることはない―――

とあり、信長さまや秀吉さまの厳罰主義はこういった帝王学にも沿っていると思いますな・・・。信賞必罰のバランスで軍隊の統制をとりなさいということです。・・・少し長すぎましたな・・・。

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