半兵衛の草庵

竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語るブログ!

織田信長の七日間にわたる葬儀 

半兵衛にございます。昨日は本能寺の変の日でしたが、それを書いていてはおもしろくないなと思い、信長様の葬儀について記したいと思います。

信長様の死後、周知の通り、織田陣営内での派閥抗争もあり、正式の葬儀もなかなか行われませんでしたが、天正十年の十月になり、ようやく京都紫野大徳寺蓮台野にて盛大に執り行われました。葬儀は十月十一日より十七日にかけて七日間にわたって行われましたが、その中心は十五日の葬儀でした。

棺は金紗金襴をもって包まれ、葬儀殿の軒の瓔珞(ようらく)、欄干(らんかん)の擬宝珠などはみな金銀がちりばめられ、八角の柱には赤と青の彩色がほどこされておりました。もちろん信長様の遺体などはあるはずもなかったので、棺の中には沈香(じんこう)を彫刻した仏像が納められました。

大徳寺から蓮台野まで、およそ千五百間の路次には、弓・箙(えびら)・槍・鉄砲を立てた警固の侍が三万ばかり、路の左右に配されました。祭礼の場には秀吉様の家臣はもとより、諸大名・小名らもことごとく参列いたしました。その他見物の貴族や庶民が雲霞のように群集していたそうです。棺をのせた御輿の前轅には池田輝政殿、後轅は羽柴於次丸秀勝殿(信長四男)がそれぞれかつぎ、位牌と太刀は秀吉様がもっておりました。そのあとに二列に連なって従うものおよそ三千余人、みな烏帽子・藤衣の装束でありました。

五山をはじめとして洛中洛外の禅僧や諸宗の僧侶の数もはかり知れぬほどで、五色の天蓋が陽に輝き、幢旛(どうばん)が風にひるがえり、沈水の煙は雲の如く、灯明の光は星にも似ていました。供具・盛物・亀足・造花、七宝、荘厳をなし、まことに極楽浄土に五百の阿羅漢、三千の仏弟子がいるさまを眼前にみるようであったといわれおります。

警護の兵に三万とはかなりすごいものですな・・・。貴族・庶民が雲霞の如く集まることもうなづける、信長様の葬儀の話でした・・・。でわ!!



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[ 2006/06/03 23:21 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(1)

戦場にはためく軍旗 

半兵衛にございます。

さてさて源平時代に使用された華美な大鎧にくらべ、鉄を用いて堅牢さに重きをおいた戦国時代の甲冑は、さまざまな禽獣をかたどった兜などがありますが、基本的には地味でした。そこで武将たちは、戦陣にさいして自己の存在を明示するための軍旗・指物・馬印などを工夫したのです。

まず軍旗とは、祭事・仏事・祭礼などに用いる旗に対して、軍陣用の旗をいいます。源平時代には紅白の旗によって敵味方を表しましたが、やがて武士団の間にも、家紋や神仏の名号を書いた軍旗が用いられるようになったのです。なかでも、武田信玄公の『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』、いわゆる『風林火山』の旗や『諏訪南宮上下大明神』の旗、上杉謙信公の紺地日の丸や、『』、『』などの一字を記した軍旗などがよく知られております。

指物差旗・背旗ともいい、戦陣のさい具足の背後の指筒(さしづつ)に差し込んで用いました。材質は紙、布、革、竹などの軽便なもので、形は幅約60cmと長さ約90cmの割合にしてつくった四半(しはん)といわれる小型の旗や、鯨骨や竹で籠のように仕立てて布で覆い、風をはらませる母衣(ほろ)など、各人の好みに任せてつくり、家紋や姓名・神仏の名号、動植物や器物などの図様をつけ、ときには数名が同じものを用いて相標(あいじるし)とすることもございました。

馬印は馬験・馬標とも記し、総大将の本陣に立てるものを大馬印、配下の武将に用いるものを小馬印と称し、ともに従士の馬印もちに立たせて進軍いたしました。形状も、信長様の金の傘、秀吉様の金瓢、家康様の七本骨に日の丸などをはじめ、思い思いの工夫がこらされました。

軍旗は源平のむかしから用いられましたが、指物と馬印は戦国時代の末に現れたものです。これらはいずれも戦陣における全軍統合の象徴であり、敵に武威を示す、戦国武将にとって大事な大事な戦具でありました。


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[ 2006/05/28 22:33 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(0)

理解されない二代目・武田勝頼 

半兵衛にございます。本日は長篠の合戦がおこなわれた日に候・・・。この戦いにより、武田家は崩壊への道をたどってしまうわけですが・・・。

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戦国最強を謳われた武田家が、弱小国甲斐を信玄公が一代で『超優良企業』に仕立てあげ、『武田二十四将図』に描かれた逸材をはじめ、名の知られていたない者を含めると雲霞の如く輩出したにも関わらず、崩壊してしまいました・・・。甲州流軍学の兵法書『豹業品』には、

―――勝合戦ばかりにあひたる国持は、負けて滅亡する。前代父名将有道の備を以て勝利あるに、子息其光なされ、唯剛強にて勝と存じ、能き家老のよき異見を用ひず、姦人の気の合ふ様に申するを誠にして、おごりて備違ひなされまじき合戦ありて、必ず負けて、終(つい)に国亡ぼすも勝合戦ばかりあひたるゆゑなり―――

とあります。武田家が『無敵』、『最強』、『常勝』の冠を得て人々に称賛されたのは、信玄公がそれに見合う努力をしたればこそで、後継者・勝頼殿の存在はその『七光』にすぎません。それでいて、偉大なる父・信玄公を超えようとした勝頼殿は、兵馬を動かし、名将たらんと活動しました。重臣の諫言を容れず、耳に心地よい言葉のみを聞き、『姦人』を近づけて、わずかばかりの勝利におごっては、もはや周囲の手のつけようがありません。

しかしながら、『勝頼殿が悪い!』とか『凡将だ!』などと言ってはいけませんよ。そもそも後継者に勝頼殿を選んだのは、父・信玄公です。さらに、勝頼殿を後継者に選んだ段階で、補佐すべき『ナンバー2』や、軍師、参謀を確定し得なかった信玄公にこそ、真の責任があるのでは???とも思ってしまいます・・・。

武田家では、信玄公の本来の後継者には、長子・太郎義信殿に決まっておりました。義信殿は、父や老臣達の苦労の時代を見て育っていました。しかしこの父子は、駿河侵攻作戦を前にして、その賛否をめぐって衝突。義信殿は自説を固執し翻しませんでした。ために自害させられたのです。よくよく考えてゆくと、武田家の歯車はこの事件から狂いだしたのでは・・・とも思います。

勝頼殿は伝えられる限り、ほとんど信玄公に逆らったことのない人でありました。信玄公に忠実で、決して信玄公を感情的に激させることはしておりません。難しい問題ですし、学ぶべきことが多いと思います。しかし、勝頼殿の心情も察してほしいものです・・・。如何せん、父が偉大すぎた・・・。これぞ最大の悲劇・・・。でわ!

    
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[ 2006/05/21 23:43 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(4)

織田信長と雨と軍配者 

半兵衛にございます。ふと外を見れば雨・・・。そして5月19日。お気付きでしょうか?永禄三年五月十九日・・・。大きく日本史の方向を変えた桶狭間の戦いがおこなわれた日でございます。

戦国時代はタブージンクスというものが根強くあり、覇王・信長様であっても、決してタブーやジンクスから解き放たれていたわけではありません。信長様は無神論者のイメージが強いですが、いざ出陣となると、あらゆる作法をつかさどる『軍配者』が身近に不可欠でした。そして桶狭間の戦いの前後、信長様の許には豊前国出身の伊束法師と呼ばれる『軍配者』が身近にあり、ふだんは僧侶として尾張国葉栗郡の光明寺に住し、ときおり兵書を講じたそうです。

おそらく伊束法師は、戦の作法をつかさどったと思われますが、これには作戦面での具体的なアドバイスは含まれてなかったようです。主君・信長様に意見を求められて、『武経七書』とよばれる兵書を紐解きつつ、一応の意見を答えたことはあっても、あくまでもそれが法師の専門ではなく、期待されたのは、『観天望気』、わかりやすくいえば、今日の天気予報です。戦いの日が晴れるのか雨になるのか、また、風は強いか弱いか、吹くならば風は何処から吹いて何処へ流れるのか。これは大将のみならず、部下を率いる将領にとって重大な問題でした。

桶狭間の戦い―――この奇襲戦が成功するか否かは、その日の天気が大きく左右していたといっても過言ではありません。信長様率いる三千弱の奇襲部隊が今川義元の駐屯する桶狭間に近づいている頃、付近一帯に大雨が降り、その雨がちょうど煙幕の役を果たし、今川軍の斥候の目をくらますことになったのです。桶狭間の折に観天望気を読んだのが伊束法師かどうかは存じませんが、信長様のもとには天候をみることのできる人物がいたのでしょう。

とくに信長様の三十代以降は天候が特段の意味を持つようになります。なぜなら信長様は鉄砲を合戦に取り入れるようになるからです。というのも、鉄砲が種子島に伝来して以来、国産鉄砲は工夫・改良が加えられ、雨でも火縄の火が消えないようにと、銃身に雨覆をかぶせたりして、鉄砲そのものは使えるようになりましたが、厄介なのは湿度で、高いか低いかにより、火薬(硝石・木炭・硫黄)の調合の量が微妙に違っていたのです。こればかりは、戦う日の天候をいち早く知る以外に工夫の余地がありません・・・。

ふとカレンダーと外の天気をみて思いました。でわ!


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[ 2006/05/19 23:34 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(3)

薄濃(はくだみ)ドクロ 

半兵衛にございます。

首実検とは、『功名が辻』でも度々見られた、大将や居並ぶ重臣たちの前で『○○が討ち取りし□□の首』ということで、首を見せる儀式のことですが、首実検後の首はどうしてるの?とか、首実検のしきたりなど、合戦という華々しいことに目を向けがちですが今日はなまなましいお話しを…

戦国時代というのは身分的秩序が重んじられていた武家社会でしたので、敵の首にも身分によって扱い方や作法にも相違がございました。たとえば、首に結ぶ首札の材質。大将首には桑の木、その他の首には椿か杉と定められ、大きさも大将のものは長さ5寸に幅2寸、諸士のものは4寸に1寸8分、雑兵のものは3寸6分に1寸余と、それぞれ規格が異なっておりました。また、首をのせるものも、大将首は檜でつくられた1尺2寸四方に4寸2分の高さの足がつけられた首台にすえ、諸士の首は6寸四方、厚さ6分で高さ2寸の首板にすえられておりました。また首実検そのものも、諸士以上の首はいかに数が多くとも一つ一つすべての首に大将による首実検の礼がとられましたが、雑兵の首は幕外に西向きにしてひとまとめに並べられ、その前を大将が馬で北から南へ三度往復して検分するという簡略なものでした。

こうして首実検をおえた首はどうするかというと・・・。獄門にかけて梟首(さらしくび)にされたり、敵方に送り返されるのです。もっとも、獄門や梟首などは謀反者や悪逆非道をおこなったものに対するみせしめの場合がほとんどで、戦場の勇者の首のほとんどは敵方に送り届けられるのがならわしでした。その場合でも、首を白絹で包み、高さ1尺2、3寸、直径8、9寸の首桶におさめて送りました。白絹は2幅、長さ2尺4寸と定められておりましたが、錦を着た大将ならその錦衣で、赤い直垂を着ていればそれを引き裂いて用いることもございました。

要するに首実検は、味方の戦果を確認し、士気をますます高めるとともに、武運つたなくして散った敵の戦死者に対する最大限の敬意がこめられた儀礼なのです。ですから、総じて戦国武将の敵の戦死者に対する扱い方は丁重であったといえます。

冷酷のように思われている信長さまでさえ、桶狭間戦勝後の首実検のさい、今川義元所用の鞭をもったまま捕虜となっていた義元の同朋に、織田方の討ち取った今川勢の首を見せて、一々それに名札をつけさせました。そうしてかの同朋に太刀・脇差をあたえて義元の首を託し、10人の僧侶を添えて、今川氏の武将・岡部元信の鳴海城に送りとどけております。

ただ信長さまは、天正元年8月に滅ぼした近江の浅井久政・長政父子の首と、越前の朝倉義景の首とを、薄濃(はくだみ)にして翌年の正月までとっておき、岐阜城へ年始の挨拶にきた諸大名・重臣らの祝宴の肴(さかな)にみせるという狂気のさたとも思える行動をしております。薄濃とは、漆塗りにしたものに金粉をほどこしたものです。しかしながら、信長さまを擁護するわけではございませんが、それらの首は『公卿(くぎょう)』に据え置かれていたと聞いておりますので(信長公記より)、信長さまなりに首は丁重に扱っていたことが察せられます。公卿とは白木の折敷の下に台をつけた衝重(ついがさね)であり、主として神供をのせるのに用いる儀式の具であります。

多くの戦死者を出した戦国時代、首実検が儀礼的かつ儀式的に行われていたことが察せられる、ちょっとなまなましいお話しですが、大河ドラマでは見られない光景ですので、お勉強になりましたかな???

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[ 2006/04/08 19:22 ] 戦国時代・・・ | TB(0) | CM(0)
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