半兵衛にございます。
首実検とは、『功名が辻』でも度々見られた、大将や居並ぶ重臣たちの前で『○○が討ち取りし□□の首』ということで、首を見せる儀式のことですが、首実検後の首はどうしてるの?とか、首実検のしきたりなど、合戦という華々しいことに目を向けがちですが今日はなまなましいお話しを…
戦国時代というのは身分的秩序が重んじられていた武家社会でしたので、敵の首にも身分によって扱い方や作法にも相違がございました。たとえば、首に結ぶ首札の材質。大将首には桑の木、その他の首には椿か杉と定められ、大きさも大将のものは長さ5寸に幅2寸、諸士のものは4寸に1寸8分、雑兵のものは3寸6分に1寸余と、それぞれ規格が異なっておりました。また、首をのせるものも、大将首は檜でつくられた1尺2寸四方に4寸2分の高さの足がつけられた首台にすえ、諸士の首は6寸四方、厚さ6分で高さ2寸の首板にすえられておりました。また首実検そのものも、諸士以上の首はいかに数が多くとも一つ一つすべての首に大将による首実検の礼がとられましたが、雑兵の首は幕外に西向きにしてひとまとめに並べられ、その前を大将が馬で北から南へ三度往復して検分するという簡略なものでした。
こうして首実検をおえた首はどうするかというと・・・。獄門にかけて梟首(さらしくび)にされたり、敵方に送り返されるのです。もっとも、獄門や梟首などは謀反者や悪逆非道をおこなったものに対するみせしめの場合がほとんどで、戦場の勇者の首のほとんどは敵方に送り届けられるのがならわしでした。その場合でも、首を白絹で包み、高さ1尺2、3寸、直径8、9寸の首桶におさめて送りました。白絹は2幅、長さ2尺4寸と定められておりましたが、錦を着た大将ならその錦衣で、赤い直垂を着ていればそれを引き裂いて用いることもございました。
要するに首実検は、味方の戦果を確認し、士気をますます高めるとともに、武運つたなくして散った敵の戦死者に対する最大限の敬意がこめられた儀礼なのです。ですから、総じて戦国武将の敵の戦死者に対する扱い方は丁重であったといえます。
冷酷のように思われている信長さまでさえ、桶狭間戦勝後の首実検のさい、今川義元所用の鞭をもったまま捕虜となっていた義元の同朋に、織田方の討ち取った今川勢の首を見せて、一々それに名札をつけさせました。そうしてかの同朋に太刀・脇差をあたえて義元の首を託し、10人の僧侶を添えて、今川氏の武将・岡部元信の鳴海城に送りとどけております。
ただ信長さまは、天正元年8月に滅ぼした近江の浅井久政・長政父子の首と、越前の朝倉義景の首とを、薄濃(はくだみ)にして翌年の正月までとっておき、岐阜城へ年始の挨拶にきた諸大名・重臣らの祝宴の肴(さかな)にみせるという狂気のさたとも思える行動をしております。薄濃とは、漆塗りにしたものに金粉をほどこしたものです。しかしながら、信長さまを擁護するわけではございませんが、それらの首は『公卿(くぎょう)』に据え置かれていたと聞いておりますので(信長公記より)、信長さまなりに首は丁重に扱っていたことが察せられます。公卿とは白木の折敷の下に台をつけた衝重(ついがさね)であり、主として神供をのせるのに用いる儀式の具であります。
多くの戦死者を出した戦国時代、首実検が儀礼的かつ儀式的に行われていたことが察せられる、ちょっとなまなましいお話しですが、大河ドラマでは見られない光景ですので、お勉強になりましたかな???