半兵衛にございます。
忠次殿のお話しのつづきですが、
信長様が
明智光秀殿に殺されると、
秀吉様が天下への道を速度を加えて走り出しました。本命とみられていた
家康様は、あわてて追いつこうとしましたが、秀吉様ははるか距離をおいて先頭を走っておりました。そういう秀吉様をよく思わない信長様の遺児・
信雄様は、家康様と
同盟し、
天正十二年、小牧・長久手の戦いの戦端が開きました。この合戦後、秀吉様は名実ともに
天下人となられましたが、秀吉様は家康様に対して、必要以上に気をつかいました。家康様だけでなく、家康様の家臣にも気を使いました。とくに忠次殿のほか二、三人の勇将にいろいろ贈り物をしました。忠次殿には京都に大きな屋敷を与え、『
その屋敷の維持管理費に、近江の国で千石やろう』といい、さらに、従四位下の左衛門督の官位も与えました。
忠次殿は、信長様に対したのと同じように、家康様の先輩や上位者にも忠節を尽くすことが、そく家康様のためになると考えていました。すなわち、そういうことが忠次殿が考える
『補佐役としての責務』であったのです。忠次殿は秀吉様にそういう扱いをされて、これを全面的に受け入れ、屋敷も手当も位も全部喜んでもらってしまったのです。
では他の武将はいうと、『
私は、徳川家康の部下です。あなたから、こんなにいろいろなものを頂くわけにはまいりません!』と断った者もいたそうです。あるいは、『
主人と相談してまいります』といって、一度秀吉様の前から退り、家康様にこのことを報告した上で、改めて秀吉様のところに行き、『
主人と相談してまいりましたが、とてもお受けすることはできません。御好意は、大変ありがたいと思います』と辞退する者もいたそうです。
ただただ、くれるものは全部もらってしまったのは忠次殿だけでした。忠次殿にしてみれば、『
秀吉様がくださるというものをもし辞退すれば、きっと御機嫌が悪くなる。秀吉様の御機嫌がわるくなるということは、そのまま家康様に対する感じを悪くするということだ。別にほしいと思わないが私が我慢してもうらうことが、家康様への忠義につながるのだ』と考えていたのでしょう・・・。しかし、これは誤算です。つまり、忠次殿はこういう考え方を貫くことによって、それで自分がいい補佐役になっていると、信じていたのでしょう・・・。
酒井 忠次(統率81、政治70、知略61、教養59)
松平氏譜代の家臣・左衛門尉酒井家当主・酒井忠親の子。徳川家康にとって義理の叔父にあたる。家康の今川人質生活時代をともにし、桶狭間以降、
『東三河衆』を率いて戦功をあげ、徳川四天王の筆頭格にあげられる。
<私評>
『信長の野望〜天下創世〜』で家康を選択すると非常に役立つ人物。統率、政治ともに低くはなく、井伊直政がいない四天王の中ではバランスがとれた武将。隠居まで間違いなく徳川家最高位の家臣であったことは間違いなさそう。しかし、天正7年の信康切腹事件により家康に恨まれてしまうことが彼の悲劇であったと言えるでしょう・・・。