半兵衛の草庵

竹中半兵衛重治を語りべに、戦国時代を語るブログ!

お知らせ・・・。 

結城筑前守に候。

わたくし社会人として、やらねばならないことをしなければならなくなってしまったので、一時お休み致します。誠に申し訳なきことではありますが。
ぶっちゃけ資格試験のため、ちょっと(3ヶ月ほど・・・)の間です。といっても、骨休めに更新することもあるかもしれませんが・・・。

昨日、うれしいニュースがありましたね。功名が辻で前田利家くんがやっとこさ登場するそうです。しかも、『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』で前田利家役を演じた唐沢寿明さんで。功名が辻では『賤ヶ岳の戦い』がおわり、『小牧・長久手の戦い』にささしかかろうとしているのに、前田利家のまの字も出ないで、『ゆるせねぇ・・・』と思っていたところに、このニュース!うれしいよ。ただし、10月1日の放送のみらしいです。

いまはそれがたのしみなんです・・・。

では、また更新するとは思いますが、その時まで!!
[ 2006/07/20 22:20 ] 未分類 | TB(0) | CM(12)

豊臣秀吉の宛先は『竜宮城主殿』 

半兵衛にございます。

さて小泉首相は自らを『織田信長』だと称しました。『自民党をぶっ壊す』の名のもとに改革を進めています。最近では破壊・建設・維持管理とわけますが、戦国期における『破壊』織田信長様、『建設』豊臣秀吉様、『維持管理』徳川家康様とわけますよね?

この中でも大事なのは、やはり何といっても新事業の建設です。秀吉様は、この建設の主力を現場の人々におきました。そのために現場(生産点)の人間のやる気を高めることに異常な努力をしたのです。特に『気くばり』に抜群のエネルギーを注ぎました。

『功名が辻』では、なにやらちょっと人間としての醜い部分を誇張している感はありますが・・・。秀吉様自身が貧しい農家の出身で、子供の頃から苦労いたしました。ですから、他人の苦労がよくわかりますし、どこを押せば他人が痛がり、あるいは喜ぶかをよく知った、いわば『人間通』といえるでしょう。

まして秀吉様は、典型的な成り上がり者ですから、部下にも心から心服する者はなかなかいません。うわべは愛想をいって、腹の中では『この成り上がりのサルめ!』と軽蔑する人間もいました。そういう層への気くばりは、わざとらしいと逆に舐められます。自然にやらなければならないのです。しかし、それには最高の技巧がいります。その技巧を気づかせないための良法というのが、『ユーモア』です。その『ユーモア』を垣間見れるこんなエピソードがあるので紹介しましょう。

秀吉様があるとき、船で小田原に向かったのですが、ある岬には妙ないい伝えがあり、『申年の人が乗っていると、その船は必ず沈む』といういい伝えでした。秀吉様には『サル』というあだ名があるので、船員達は、この岬のそばにくると騒ぎ始めたのです。空模様もおかしくなり波も立って、船員達は『サルとあだ名のある秀吉様が乗っているせいだ。引き返そう』などと相談をはじめました。『何をさわいでおる?』と眉を寄せた秀吉様は、家来から理由をきくと笑ったのです。普通であれば、この理由をきくと不愉快になるものですが・・・。

秀吉様は紙と筆を用意させると、サラサラと何か書いたのです。そして船員の長を呼ぶと、『船員達の前で、これを大声で読み上げ、海に投げ込め』といいました。長がその文面に目をとおすと、『この岬の掟はよく知っているが、私は特別なサルだから、無事に通してくれ。秀吉』と書いてありました。しかも宛名は『竜宮城主殿』。これを見た長は笑い出し、皆の前で読み上げると、皆も笑いました。いつしか恐怖心も消えていたのでした。

とまぁ、秀吉様のユーモアで現場の人々の迷信を吹き飛ばしたという話です。が、やはりそうせさせたのは、サルという自分のあだ名を逆用した秀吉様の雅量といえるでしょうな・・・。でわ!


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[ 2006/07/09 22:10 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(4)

危機的状況に強い片倉小十郎 其之三 

半兵衛にございます。片倉小十郎殿のお話は今日で終わりにしたいと思います。

さて小田原へ行くことに決めた政宗殿に、供の景綱殿は、『供は少なく、お身軽に。また、死をお覚悟下さい。』といいました。これは考えればおかしな話です。なぜなら伊達家安泰のために、小田原へ行くのですから・・・。それにもかかわらず死を覚悟しろとはどういうことか?

政宗殿には景綱殿の言葉の意味がわかっていたでしょう。景綱殿は『それほど秀吉は恐ろしい存在だ』と警告していたのです。ですから身軽に、供も五十人ほどしか連れて行きませんでした。しかし秀吉様は『小田原への到着が遅い』として、政宗殿を監禁してしまったのです。これに他の重臣達は狼狽し、口々に景綱殿を『おぬしの見込み違いだ』と責めました。

が、景綱殿はあわてません。政宗殿に、『どうせのこと、茶でもお習いになったらいかがですか』と勧め、『師は千利休殿がいいでしょう』とまでいったのです。政宗殿も景綱殿と同様に『危機的状況に強い』男です。利休殿に茶を習いはじめ、このことが利休殿を通じ秀吉様の耳に入り、政宗殿を『東北のサル』視していた秀吉様は苦笑いし、対面を許したのでした。

対面の日、政宗殿は小刀を差して歩いていったのです。別段悪びれる様子もなく、堂々と秀吉様の前に近づいていきました。それだけに小刀が目立ち、居並ぶ大名達の視線は、政宗殿の腰に注がれていました。

空気が異様に緊張したとき、後方から景綱殿が『殿!お刀!』と声をあげ、政宗殿は『おう、これは御無礼』と大きな声でいい、小刀をサヤごと引き抜き、『どなたか御願い申す』と宙に小刀を投げあげたのです・・・。

景綱殿の涙ぐましい補佐ぶりでありますなぁ・・・。景綱殿は政宗殿とはいわば『水魚の交わり』なのでしょうな。政宗殿の性格を知りつくしております。小田原へ来たことが意味するのは、単に秀吉様に屈服しただけではありません。奥州の覇者たろうとした政宗殿の志を折らねばならない、ということです。つまり、東北に文化を開かせようとしていた政宗殿の夢をあきらめさせなければならない、ということです。

そういう政宗殿の気持ちを知っているだけに、景綱殿は『みじめな降伏』ではなく、『華やかな降伏』を演出したのでした。小田原参陣で伊達政宗殿の栄光は終わったと言えます。しかし、政宗殿に『花の退場』をさせたことで、伊達家は二百六十年の安泰を得ることができたのです。

片倉小十郎景綱殿が好きなる話でした。でわ!


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[ 2006/07/06 23:28 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(2)

危機的状況に強い片倉小十郎 其之二 

半兵衛にございます。本日は、伊達政宗殿を補佐した片倉小十郎景綱殿のお話しを・・・

秀吉様が小田原城北条氏を攻めたとき、秀吉様の眼は小田原になく、すでに東北へ向けられておりました。東北諸大名の自分に対する態度を凝視していたのです。『小田原攻撃に参陣する者は帰順したものと認め、所領安堵を約す。参陣しない者は家をつぶし、所領を全て没収する』と決意しておりました。その中でもとくににらみつけていたのが、独眼竜・伊達政宗殿の動向でした。この危機に際し、景綱殿とともに政宗殿を補佐した伊達成実殿の意見は『徹底抗戦』でした。政宗殿もそのつもりをしておりました。

しかし、政宗殿はいまひとつ踏み切れなかったのです。そこで景綱殿に『どう思うか?』と聞くと、景綱殿はすぐに答えませんでした。そのときちょうど景綱殿のまわりを一匹のハエが飛び回り、それを手で振り払っていましたが、ハエは一時は遠くに退きますが、すぐ戻ってくるのです。景綱殿は苦笑いし、『ハエはうるそうございますなぁ…』とつぶやいたのです。

ただそれだけです。が、それだけで政宗殿は景綱殿がいいたいことを悟りました。景綱殿は『秀吉はハエと同じです。手で払っても何度でもやってきます』といっているのでした。それは景綱殿が自ら収集した情報によって、豊臣政権は強大なものであり、払っても払ってもやって来るということを知っての、ある種の表現でした。

景綱殿はこうした何気ない『表現』により、景綱殿より身分の高い者への配慮をしつつ、意見を述べていたのです。

政宗殿は『抗戦をやめて、小田原へ行く』といい、最初の危機は免れたのでした。これは政宗殿が生き残るための一大転機といっていいでしょう。なぜなら、もし小田原へ行かなければ、日本中を敵にまわすことになるからです。事実、秀吉様の東北征服後、他の大名は全部つぶされており、徹底抗戦をしていたならば、伊達家も滅亡していたはずです。秀吉様をハエにたとえた景綱殿の間接諫言は、政宗殿はもちろんのこと、伊達家を救ったのです。

政宗殿の小田原参陣には、生き残るためともう一つの真意がありましたが・・・。それはまた次の機会に・・・

つづく


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[ 2006/07/02 22:30 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(3)

危機的状況に強い片倉小十郎 其之一 

半兵衛にございます。本日は伊達家の補佐役・片倉小十郎殿にスポットをあててみたいと思っております。

小十郎殿の慎重な知謀性は伊達家二六〇年の経営活動の中で、伊達家が危機に陥ったときに必ず発揮されているのです。つまり伊達家が滅ぶか、生き残れるかというときに、補佐機能が最大に発揮されるのです。

例えば…

政宗殿が豊臣政権に屈服するか、徹底抗戦するかの選択に迫られたとき
いわゆる『伊達騒動』が起こり、伊達家そのものが滅亡の危機に瀕したとき

明治維新時、東北諸藩が混乱状態になり、最大の藩である伊達藩が全体のイニシアティブ(主導)をとらなければならなくなったとき

などです。

伊達家を襲ったこの『危機のサイクル』に、その都度補佐役の立場を貫き、大勇断をもって主家を生き残らせたのは、すべて片倉小十郎殿でした。特性としては、生き残ることに強い補佐役であるといえるでしょう。

もちろん、片倉小十郎景綱殿が生き残っていたわけではなく、『小十郎』とは片倉家の当主が最後まで名乗った通称です。ですから、政宗殿を補佐したのも小十郎殿。伊達騒動を切り抜けたのも、明治維新時の混乱を乗り切ったのも、小十郎殿というわけです。

話はズレましたが、小十郎殿がいかに『生き残ることに強い』特性をもった補佐役であっても、必要なときに十二分に発揮されなければ意味がありません。ところがこの特性の発揮は、どんな場合においても周囲から好感と拍手で迎えられるとは限りません。現代でもこのような特性を発揮しようとすると、まわりから足を引っ張られることが多々ありますよね???

足の引っ張り合いなどやっている場合でないとはっきりわかっているのに、その特性が行賞に結びつくと考えられると、ハイエナ的人物がよってくるものです。『組織を生き残らせる』という大事を忘れてしまうのです。理屈ではわかっていてもどうしようもないことがあります。それが、個人や組織の栄枯盛衰が人間の思い通りにいかない原因であり、それゆえに『天』や『運』が登場してくるのでしょうな。

では、『生き残ることに強い』特性とはいかなることか、片倉小十郎景綱殿のお話しでご理解いただこう。

・・・つづく


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[ 2006/06/29 22:38 ] 戦国武将列伝 | TB(0) | CM(2)
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Author:竹中半兵衛
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